カメラと空と走ること

もう七時か。日が長くなったな、と俺は思う。
汗で濡れたTシャツの袖で額の汗を拭いながら、境内にあるざらりとした石の上に腰掛ける。
いつもは近所の大きな公園まで行って帰るだけなのに、今日は考え事をしていたら寺の方まで来てしまった。「走っていると頭のなかが空っぽになるから気持ちいい」なんて言っていたのは、高校の同級生のユタカだったっけ。「それはお前の頭がもともと空っぽなんだよ」とやり取りした日が懐かしい。

思えば俺は、バイトのひとつでもして母さんを助けてやるべきだったのだと思う。けれど、あの頃の俺はそんなこともできなくて、何かに固執するように陸上に明け暮れていた。最後の青春を体の芯に刻みこむように。
そうしてユタカは東京の大学に行き、俺は地元の製薬会社に就職した。

「一緒に東京行きたかったけど、家の事情じゃ仕方ないよな。お前、ほんとエライと思うよ。まあ俺も大学では陸上やる気ないし、お互い走り納めだな」最後の大会の朝、準備運動の最中にあいつはそう言ってへらへら笑っていた。

ユタカは悪くない。高校のダチの中でもいいやつだったと思う。ただあちら側の人間だっただけで。

ふう、と頬を膨らませて、大きく息を吐く。まだ心臓が波打っている。就職して一年と少し。やっと仕事にも慣れてきた。幸いなことに、仕事場には高卒を差別するような人はいないし、俺はそれなりにうまく世渡りしている方だと思う。両脚の筋肉も、まだ衰えてはいない。

でも、と俺は思う。でも、どんなに筋肉をつけたところで、この二本の脚だけじゃそんなに遠くには行けない。東京にも、こないだ家族で行った淡路島にも、この街を出ることさえも。

突如、やり切れない閉塞感に襲われる。走るだけじゃ、この気持ちは流れ去ってはくれない。毎日決められた時間に会社に行き、帰宅後に走り、最近ようやくコンビニの深夜バイトを辞めてくれた母さんの作った晩メシを食う。まだ中学生の美里だって、もう毎日毎日主婦みたく献立を考えなくてもよくなった。普通の中学生みたいな生活を送れるようになった。

だから、と俺は自分に言い聞かせる。俺は不幸じゃない。家族だっている。虐待だって受けたことなんてない。贅沢はできないけど、たまには欲しいものを買える。母さんも佑介も美里も、俺が就職して生活は楽になったはずだ。だから、俺はこの道を選んだんだ。

なのに、なのにどうしてこんなにも不自由なんだろう。ここからどこにも行けないような気持ちになるんだろう。俺がまだ19だからだろうか。俺は、まだまだ子どもだ。

「あら、今日は先客が」右前方から声がして、顔を上げる。

手押し車の上にコンビニの袋を乗せた小柄な高齢の婆さんがニコニコして立っていた。いつの間に前に立たれていたのか、全然気が付かなかった。

「偉いわねえ。訓練かなにか?」婆さんはごく自然に俺の隣に腰掛ける。

「いや、会社帰りにちょっと」俺は見知らぬ人との会話に、ぎこちなく答える。

「あら、会社員さん? 若いのに偉いわねえ」彼女はやたらと俺を褒めてくる。

「いつもここを散歩して帰るのよ。最近は便利なお店ができてね、私みたいにもう料理がおっくうになっちゃっても、おいしいものが食べられるのよ」そう言って彼女は、コンビニの袋からジャムパンひとつとマカロニサラダを取り出す。栄養偏ってんな、と俺は思う。それに、一人暮らしか。

「きれいねえ」ほら、と彼女は左斜め前のほうを指差す。

「私ねえ、この瞬間が好きなのよ。お日さまそのものはもう沈んでるんだけど、その余韻をまだ空に残しているこの瞬間が」俺は空ではなく、彼女の顔から目を離せなくなっていた。
彼女は泣いていた。

「だいじょうぶ、ですか」俺は首に巻いた汗まみれのタオルくらいしか持ち合わせていないことを悔やむ。

「あらあら、ごめんなさいね。今日はね、夫が死んでちょうど十年なのよ。なんだか寂しくてね」彼女は手押し車から取り出したタオルハンカチで涙を拭った。俺は黙ってその様子を見守っている。

「写真が好きでね。こういう空を見ると、いつもカメラ構えて。私のことなんて忘れちゃうくらいに夢中で撮っていたわ。家には空の写真がアルバムに五十はあるわよ」と彼女は笑った。

「不思議じゃない? 空を見ていると、あの人がカメラ構えてそこに立っているような気がするの。死んで空に行ったのかどうかはわからないけれど、少なくともこの空は世界中につながってるじゃない。そう思うと、ここからどこにでも行けちゃうような気がする。ちゃんとここで、毎日を暮らせる気がする」目をつむった彼女は、とても可愛らしい女性に見えた。

「ごめんなさいね、年寄りの話を聞かせてしまって」彼女は立ち上がり、俺に背を向けようとする。

「あ、あの」ずっと黙ったままだった俺の声は、喉の奥で少し絡まる。

「カメラ、素敵だと思います。空の写真、いいと思います。あの、カメラ、俺もはじめます。またよかったら」

「ふふ、またよかったら、ここで見せてくださいね。楽しみにしています」彼女はにっこり笑って、ゆっくりと手押し車を押して行った。

一眼レフにしようか、あの人はデジカメのことを知っているだろうか。俺の足は、彼女とは反対方向へ走り出す。


高評価おすすめ一眼レフ

興福寺

あとがき

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※内容は同じです

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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