読書の明かり、支店長の薄毛

読書

 ぽりぽりぽり。白で統一された無駄のない一人暮らしの部屋の中に、じゃがりこを咀嚼する音が響いている。

 「あんた、明日絶対顔むくむで」よいしょ、と声を出して百子(ももこ)はベッドの上で姿勢を仰向けに変える。
 肘をついて本を読むのも案外疲れるものなのだ。すぐに肩が痛くなる。かと言って、こんなふうに仰向けになってみたところで、数分もしないうちに本の重みに手が音を上げることも知っていた。だいいち、この姿勢は目が悪くなる。長く本を読むための姿勢というのは、人間にとって永遠のテーマである気がする。

 「もう今日やもん。日変わったらいいんです。てゆうか小橋(こばし)さん、今『よいしょ』って声に出てましたよ、気づいてる? そういうとこからオバサンって始まるんですよ」床に敷いた布団の上でにやついているのは会社の後輩、丸橋芹奈(まるはしせりな)である。

 「だまれ、この独り身が」百子は本から目をそらさずに悪態をつく。

 「小橋さんだって、ダメ男の彼氏とだらだら付き合ってるだけでしょ! 年齢的にはうちのほうが余裕あるもん」アルフォート開けましょー、と芹奈が間延びした声で袋に手をかける。

 「彼氏ほしいんやったら、金曜日の夜に女の先輩の家で缶チューハイ空けながらパジャマでじゃがりこ食べてんと、可愛らしいカッコして合コンでも行きや。地銀女子はモテるよ、安定してるし。あんたちゃんとしたら可愛い顔してんねんから」

 「ちょっと待って、ちゃんとしたらってどういうこと」褒められ慣れていない典型的な大阪の女である芹奈は、瞬時に変顔を作って百子に見せてくる。もう百子に本を読ませる気はないらしい。

 「とりあえず、そのよれよれのパジャマどうにかしたら」

 「あ、これ? いいでしょ、よれよれになったパジャマって、なんか痩せたみたいな気持ちになりません?」またも得意気に、腹とズボンにある空間を大きく広げてみせる。

 「パンツ見えてるで。そのエンドレス菓子をやめようとは思わへんわけ」百子は明日の床掃除を憂鬱に思いながら芹奈をたしなめる。

 「小橋さんは何でもかんでもきっちりしようとしすぎなんですって。生きるの疲れません?」

 「きっちりしようとしなあかんねん、あたしの場合。あんたみたいに出来が良くないから」芹奈はこんな性格のくせに、恐ろしく仕事ができる。要領もよく、みんなにかわいがられる。一方で百子は、気をつけようと思えば思うほど、くだらないミスで周りに迷惑をかけ、そのたびに自己嫌悪に陥るのだった。

 「えへへい。小橋センパイ、今日うちのこと褒めすぎ。照れる」芹奈は布団の上できゅっと身を縮めた。

 「小橋さん今日疲れたでしょ。もう寝ます? 電気、消しましょか」芹奈が立ちかける。百子がほんのすこしでも疲れた表情を見せると、彼女は敏感にそれを感じ取り、行動に移す。

 今日、百子は支店長にこっぴどく叱られた。百子のカウンターで、大きな金額の誤差が生じたのだ。そのせいで、金曜日だというのに支店の皆を巻き込んで勘定のし直しが行われた。この春から新しく来た、頭の禿げあがった支店長は百子と相性が悪かった。とにかくミスをあげつらい、それを皆の前で叱ることで場を締めようとする恐怖政治家タイプだった。百子はひと月半ですでにぐったりとしていた。

 「そやな。寝よか。あたしらももうオールするような歳でもないもんなあ。肌荒れるわ」百子は努めて明るく応える。

 よっこいしょ、あ、うちもよっこいしょって言うてもた、と芹奈がひとりでぶつぶつ言っている。

 「小橋さん、これいちいち電気消すのに立つの、めんどくないですか? 寝る前にいつも本読むんでしょ」

 「まあ、めんどいと言えばめんどいかな」百子は左の親指にできたさかむけをいじくっていた。

 「うちいいこと考えた。見て」芹奈のほうを見やると、照明のひもが床に届かんばかりに伸びていた。

 「え、何それ」百子は目を細めてその正体を探ろうとする。メガネがないと、芹奈の顔さえ判別しにくい。

 「じゃじゃーん」手を広げた芹奈の下半身から、ズボンがずり落ちる。

 「うちのパジャマのひもでしたー。画期的発明。うち天才かも」ほら、と芹奈はわざわざ寝転んで、ぱちぱちと電気を消してみせる。
 二秒間の沈黙。

 「ぶぶっ」耐えられなくなった百子が吹き出す。

 「あんたアホやろ! せっかくスタイリシュなあたしの部屋に何してくれてんねん」

 「よかった。ちょっと間あったから、おやすみ前に盛大にスベったかと思った」あひゃひゃ、と暗闇の中で笑いながら芹奈が応える。

 「だって明らかに浮いてるやん、この部屋で。あのひも。あかんあかん」もうすっかり眠気は吹き飛んでしまった。

 「誕生日にベッド脇の照明買ってあげますから。消すのに立たんでもいいやつ。それまでの処置」

 「いや、下に延びたところで、どのみちうちのベッドからは届かんから」

 「うわ、ほんまや」芹奈は、ばひゃばひゃと大げさに笑った。

 「ひー。でも、なんかありがとう」二人してひとしきり笑った後、天井を見上げて百子は呟いた。暗闇は、人を素直にしてくれる。

 「あんなハゲ支店長の言うことなんて、気にしたらだめですよ。小橋と丸橋で『まる子』って言われるいいコンビなんですから、うちら」それは同僚たちが百子たちにつけたコンビ名のようなものだった。

 「ほんまやな、こないだなんて、新谷さんに『まる子』って呼ばれたで、うちがひとりの時。まる子じゃなくて、ももこですー、作者の方ですーって返したら、めっちゃ笑い取れたもん」百子はまたも笑いがこみあげてくる。

 「そうですよ。小橋さんは、みんなに愛されるキャラなんやから」正真正銘みんなに愛される芹奈が言う。

 「元気、でた? 明日、言うてた中華の食べ放題いける?」芹奈がタメ口で話す時は、甘えている時だ。

 「ゲンキンなやつやなあ。いいよ、昨日給料日やったし、あたしのおごりで行こう。それにしても、あんたの胃って二日酔いとかならへんの」

 「よっゆーでーす」芹奈がうるさいくらいの声で応える。

 「誕生日プレゼント、ええやつ頼むわ」

 百子は、もう少しだけ辞めずに職場にいてやってもいいか、と思った。

【その後、芹奈に検討された読書灯】


あとがき

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※内容は同じです

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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