前兆 〜ある女性保険営業社員の話〜

冷蔵庫

 「だから、これはお客様にとっても悪くない話なんです。それどころかとてもいい。とてもいいんです。」その女性はうっとりするような表情で、僕のおでこと眉毛の間を交互に見つめながら話していた。

 「つまり、弊社のプランですとお客様がお仕事をお辞めになった後にまとまった金額が入ることになります。今はお客様もお勤めしていらっしゃるわけだし、ほら、お子さんもいないでしょう? 気に触ったらごめんなさいね。だから、今のうちに安心できるところに現金をお預けになる方がいいんです。きっと」

 「うん」

 僕はとにかくすっかり最後まで聞いてしまうことにする。この手の女性は、少なくとも自分が話してしまう予定だったことを洗いざらい話してしまわないことには、ものごとを次の段階に進めることもできないのだということを、僕は経験から知っていた。

 「もしお子さんが生まれるなら、また違ったプランをご提示することも出来るんですが…」

 「僕と妻は子どもは作らない。それだけは絶対だ」僕は今日の会話で初めての主張をした。

 「そうですか。では、例えばこのAのプランですと、毎月8,700円をお支払いいただくと、入院保障がつくうえに、65歳の時におおよそ300万円を受け取れる予定になっています」

 「おおよそ? 予定?」

 「残念ながらお客様」彼女は言い訳がましく、そして残念そうに微笑む。

 「この世に『絶対』はないんですの」彼女はひげを揺らしながら僕を見下ろす。きっとこの人は「ひげ」で僕を誘惑しようとしているんだと思う。

 「ねぇ、あなた。やめておきましょうよ。あなたが65歳の時、私はこの世にいると思う?」と、僕より24歳年上の妻が言った。

 実のところ、彼女は僕の妻ではない。あるとき突然僕の部屋にやってきて、以来僕の家の冷蔵庫の中に住み着いている。「寒いところで育ったのよ」と彼女は言っていた。「ここはなんだかチーズの臭いがするわ」とも。とにかく今、僕はこのひげの生えた女性営業社員と、24歳年上の妻の板挟みになっている。この時までほとんど妻の存在を無視していたこの女性は、やはり僕の目だけを見て続ける。

 「これは奥様にとっても、悪くないお話ですの」

 突然、目の前の女性営業社員がぐにゃりと揺れ、目の前に冷蔵庫が現れた。あの女性はどこに行ったのだろう。冷蔵庫の扉を開けると、そこは誰かの胃袋のようだった。おびただしい量の肉塊がそこら中にあり、全てが行儀よく並んで美しくラップを施されていた。隅のほうで何かがうずくまっている。目を凝らすと、それは僕の妻だった。僕はそっと冷蔵庫の扉を閉じ、椅子に座り直した。その冷蔵庫は、僕の家のものにも見えたし、そうでないようにも見えた。どうしてこんなことになっちゃったんんだろう、と僕は目を閉じる。

 次に目を開けると、そこはいつものデスクだった。左の中指を眉間に当て、考えるふりをしながら僕は五分ほど昼寝をすることがある。そして今すぐに家に帰らなければならない、と感じた。気分が悪いから、と上司に早退の届けを出し、できるだけ急いで家に帰った。

 そこにはもう妻はいなかった。妻の下着も、歯ブラシも、お気に入りのシリアルも、ブラジルで買ったタペストリーも、すっかり姿を消していた。実際には僕の二歳下の、七年前にバーで声をかけた女。もっと早く気づくべきだったのだ、と僕は思う。前兆はあったじゃないか、と。

 僕は受話器を取り、電話をかけた。「もしもし、保険を解約したいんだけれど」

あとがき

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