さくらんぼは恋人からの贈り物

さくらんぼ

 そのだだっ広い工場の跡地が、野上第一小学校の一部の男子だけの秘密の遊び場になっていることを知っているのは、たぶん女子の中では遊菜(ゆな)だけだったと思う。

 その日の五時間目が終わった後も、淡い黄色のランドセルを背負った遊菜は、工場の右奥にあるいちばんさびれた廃屋の裏にじっとしていた。ここで、同級生と上級生の男子それぞれ数人と遊んでいる柊木涼(ひいらぎりょう)を待っているのだった。

 「俺が来るまで、ここに隠れてろ。この辺にはみんな来ないから」そう言う涼は遊菜にとって、王子さまみたいに見えた。

 思えば涼は、遊菜が小さい頃から王子さまだった。幼稚園の節分行事の豆まきで、大豆アレルギーを持つ遊菜が他の男子にからかわれて豆を投げつけられて泣いている時も、涼が彼らをやっつけてくれた。小学1年生の遠足の自由時間に帰り道がわからなくなった時も、ずっと遊菜の手を握っていてくれた。
 3年生になった頃からどういうわけか涼はみんなの前で遊菜とあまり話をしてくれなくなったけれど、二人の時はいつもどおりちゃんと優しい涼になった。急に色気づいた女子たちの会話にうまくついていけない遊菜にとって、涼と過ごす時間は今でも大切な、世界とのつながりだった。

 「遊菜」じっと灰白色のつるつるとしたコンクリートを眺めていた遊菜は、いつもの声にはっと顔を上げた。そこにはいつの間にかほんの少し精悍な顔つきになった涼が、こめかみを汗で濡らして立っていた。

 「りょーくん」遊菜は嬉しくてさっと立ち上がろうとするが、長時間同じ姿勢を強いられた膝は思うように伸びてくれない。遊菜のからだはがくりと平衡を失い、右によろめく。

 「あぶねっ」涼がとっさに遊菜のからだを支えてくれる。急に血がめぐった両脚がじんじんと主張していた。

 「遊菜、わりい。俺ら、今からゲーセン行くことなった。遊菜を連れていけない」涼は申し訳なさそうに左下に視線を逸らす。

 「いいよ、行ってきて。遊菜、わかってるから。そういうのは、ジョシがいちゃだめなんでしょ」どのみちここに隠れていても、涼と話せるのはほんのわずかな時間だけなのだ。

 「わりいな。週末はお前ん家の父ちゃんが魚釣り連れてってくれる約束だもんな。そん時に話そうぜ」

 「うん」遊菜は涼がだんだんと離れていってしまうことにひどく恐怖に近い感情を覚えていたが、それを決して涼に悟られないように注意していた。遊菜の父親が涼と仲がいいのは、ありがたいことだった。涼は自分の父親とはあまり「ウマが合わない」らしい。

 「これ、お詫び」そう言って涼は、後ろに隠していたものを差し出した。

 それは樹の枝についたままの、さくらんぼだった。そのぷっくりとした実は、雨上がりの太陽の光を反射して、つやつやと宝石のように輝いて見えた。血色の良い唇のような鮮やかな橙赤色、静脈が見えそうな青白い頬が微熱を出したような控えめな赤、そしてまだ未熟なマスカット色の実が涼の手の振動でぷるぷると震えていた。

 「わ、さくらんぼ」遊菜はぱっと目を輝かせた。

 「いいだろ、これ、向こうの方に生えてるんだ。鳥に食われる前に、お前にやるよ」

 りょうー、と彼を呼ぶ甲高い少年の声が遠くで聞こえた。

 「やべ、俺行かなきゃ。お前はあと五分くらいしたらこっそり帰れな。出るところ、大人に見つかっちゃだめだぞ」そう言って涼は足早に去っていった。

 残された遊菜は、やっとしびれの取れたばかりの膝をもう一度折りたたみ、幼い恋人にもらったばかりの宝石を眺めた。

 「ごめんねえ」遊菜はいずれ赤くなるはずだった緑の実に向かって呟いた。あなたもちゃんと食べてあげるから、と。そうして、実をひとつひとつよく点検してみる。

 この真っ赤なのが、りょーちゃん。隣で赤い実にずっとくっついているちょっと白いのが、遊菜。それでこの奥の小さいのは、遊菜のおばあちゃん。だって遊菜たち三人は、いつも遊菜の家の「えんがわ」で一緒にアイスクリームを食べるから。前におじいちゃん宛に届いた「おちゅーげん」のアイスクリームが、遊菜は今でも忘れられない。だから、この葉っぱはおじいちゃん。遊菜たちを一番上で支えてくれる偉い人だから。残った青い実はどうしようか、と遊菜は考える。お父さんとお母さんのどちらか一人を選ぶのは、なんだかもう一方に悪い気がした。決められないから、この実は早く食べちゃおう。

 そうして遊菜は、涼の実と遊菜の実からぶら下がっている雨の名残を落とさないように見つめる。

 「雨のしずくは、遊菜のほうが大きいね」遊菜は、自分の中にいくらかでも涼よりも多く持っているものが果たしてあるのだろうかと思いを巡らせる。そして二つの実が協力して持っているしずくのほうに、より愛しさを感じた。

 三つのしずくにはどれも、廃屋が逆さまに映っていた。涼が遊菜にだけ教えてくれた、秘密の隠れ場所。遊菜はそのしずくが落ちてしまわないうちに、そうっとそのしずくを口に運んだ。三つはひとつになり、そのまま遊菜の口を潤した。遊菜は今度こそ膝をしっかりと伸ばし、祖父母の待つ家へ向かった。

あとがき

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