夜のお茶会 〜前編〜

コーヒー

 ひどく蒸し暑いジャングルの中で、熊の毛皮をまといながらリナは探検を続けていた。目標までおおよそあと2km。けれど彼女は、その後にも延々と新しい目標が現れ続けることを知っていた。この両脚が役に立たなくなるまで。

 「あっつ」目を開けると、いつもどおりの天井がそこにあった。縦横にうすくクリーム色の網目が入っているその模様は、リナがここに入居を決めたあとに気付いたものだった。そもそも、この家に大したこだわりもなかった。「会社から二駅」という条件と家賃だけで決めたようなものだ。

 夢か、とリナは顔に貼り付いた髪を耳にかけた。冷房をいれたままで寝ると翌朝がつらく、自然の風に期待をこめて窓を開けたまま寝ると、その蒸し暑さに夢見が悪くなる。こんなにも文明は発達していて、人間たちは目にも留まらぬ速さで「不快」を「快」に変換し続けているというのに、まだまだ世界に「不快」は存在している。この世の中から「不快」が姿を消すのは、それを感じる人間がみんないなくなってしまう時なのではないか、とときどきリナは考えたりする。

 枕元でコードに挿したままのスマートフォンの時計を見ると、すでに午後三時を回っていた。先週と同じふうに過ごすのなら、これからだらだらと一時間ほどベッドの中でスマートフォンをいじくり、それからのろのろと起きだして一週間分の洗濯ものをする。気が向けば近所のスーパーに夕食の材料を買いに行くし、気が向かなければゴールデンウィークに山ほど冷凍しておいたハンバーグと白飯で朝昼夜兼用の食事を済ませ、その流れのままスナック菓子と冷蔵庫のビールで一人晩酌をする。週に一度だけの休みである日曜日は、いつもこんなふうに終わってゆく。月曜日から土曜日は、毎日終電ぎりぎりまで会社でパソコンに向かっているため、日曜日はすっかり気が緩んでしまうのだ。

 それでも自分は幸せなほうだ、とリナは思っていた。もちろん、社員をぼろきれのようにこき使うだけのブラック企業と比べているわけではない。労働時間だけで言うなら、リナの勤める株式会社DreamItも十分ブラック企業の枠に収まってしまうだろう。けれど、リナたちはリナたちがこだわりたいから長時間にわたって作業をしているのだった。そのあいだにかかる電気代、空調代を会社が負担してくれていることにありがたみを感じるべきだとさえ思っていた。労働基準法を声高に叫び続ける外野から口を挟まれる筋合いはなかった。
 そして世間には、ほどほどの残業と、それなりの給料と、定められた休みがあっても、幸せとはいえない人たちもいた。彼らは思考を停止し、毎日をただ消化していた。彼らに夢はなかった。

 「夢のない人生なんて、消化試合のようなものだと思わないか?」これはリナが就職活動をしていた時、この会社の社長に言われたひと言だった。日本の就活に嫌気が差していたリナは、この社長についていくことにした。リナの会社は、ひと言で言うなら「夢の応援」をする会社だった。そしてリナは、週に一度訪れる日曜日にだけ、夢を見ることをお休みすることでバランスをとっていた。それなのに、ここのところ悪い夢ばかり見る。

 「あ、やばい」体に遅れて頭がじわじわ覚醒してくると、リナはあることを思い出した。それは、今日がいつもの日曜日とは違う、ということだった。今日の午後四時、四人の同僚がリナの家に集まる予定になっていたのだ。全国に五支社ある中でももっとも小さな規模で動いているリナの支社は、リナを含めて五人の社員で構成されていた。自然と仲もよかった。それでも普段一緒に過ごす時間があまりにも多いせいか、休日にわざわざ集まることはこれまでなかった。きっかけは職場でのこんなやり取りだった。

 「おいユラリナ。お前それでコーヒー五杯目じゃないか?」職場の上司である北向(きたむかい)がリナの水玉模様のマグカップを見て言った。リナの苗字が「由良」であることから、リナは高校生のころからずっと周りに「ユラリナ」を呼ばれている。今年三十五歳になる北向はリナの支社で一番上の立場であり、仕事も早く、周りへの目配りも完璧な人物だった。

 「そうですけど。コーヒーがないと仕事のペース落ちるんですもん」リナはインスタントコーヒー特有の鼻をつんとさすような匂いをまきちらしながらデスクに戻った。

 「コーヒーって、歯が汚くなったり、胃腸に悪いイメージがあるけど。でもダイエットにはいいらしい」小寺美波(こてらみなみ)がニッと歯を出してみせる。彼女はリナの四歳年上で、どちらかというと外の仕事を得意としていた。小寺もコーヒーが好きで、会社のポットに水を補充するのは、いつもリナか小寺だった。

 「そうなんすか? おれ、胃腸弱いけどコーヒーいけますよ。それに最近ニュースで、コーヒーは糖尿とかガンになりにくくなる効果があるって言ってたけど」先日ついに三十歳を迎えた馬場慎一(ばばしんいち)が、金色の缶コーヒーをぐいっと傾けた。

 「調べたところによると」一年目の加奈ゆう(かなゆう)がパソコンの画面から目を離さずに言った。彼女はひどく頭が切れ、仕事も早いのだけれど、コミュニケーションに少々難があった。けれど悪気があるわけではなく、いつも一生懸命なので、唯一内定が取れたというこの会社ではその特徴はむしろいじりがいのある長所として受け入れられていた。

 「コーヒーには長所と短所があります。まずいい点として、先ほど小寺さんがおっしゃったダイエット効果。そして馬場さんのおっしゃった、ガンや糖尿病などへの効果も認められているようです。また、もちろんご存知の通り眠気覚まし効果もあるので、私たちのような社畜にはぴったりの飲み物です。けれど」彼女は息をつく暇もなく続ける。
 「やはり五杯というのは飲みすぎなようです。せめて三〜四杯程度にとどめておかれるのがよいのではないかと。また、小寺さんのようにミルクと砂糖を入れたり、私たちのように運動不足だと、ダイエット効果もなくなります。あと、缶コーヒーは添加物の塊なのでおすすめしません」鮮やかに言い切って、加奈はまた無表情のまま作業に戻っていった。

 「あんたね、そういうの外でやると嫌われるから、あたしたちの前だけにしときなよ」隣に座る小寺が加奈の頭をぐりぐりとやっている。

 「私の個人的な意見ではありません。複数の専門的立場からの総合的解釈です」加奈は相変わらずの表情で、パソコンを指差している。

 「ぶはっ」馬場を挟んでリナの斜め右、全員を見渡せる位置に座る北向が吹き出した。

 「お前ら、ほんと良いキャラしてるよなあ。好きだわあ」彼が自分のカップを取り出しながら言う。北向は、一杯ずつドリップで入れているこだわり派だ。

 「てゆうか」小寺がカップに残った冷たいコーヒーを口に含んで言う。
 「あたしたち、この生活してる時点で健康に良くないよね。コーヒーの味をゆっくり楽しむ暇だってないもん」はあ、と大きく息をつきながら、彼女は肩を回した。

 「うわっ、コーヒーくせえ。小寺さん、息吐く時は、前に人がいないか確認してからにしてくださいよ」小寺の目の前に座る馬場が声を上げた。

 「豆を挽いてコーヒー入れたことってありますか?」今日は珍しく加奈がよく会話に加わってくる。

 「ないなあ。カフェの挽きたてコーヒーがわたしの最上のコーヒーかな」リナは学生時代に女友達と巡ったカフェを思い出していた。

 「俺あるよ。ダチが脱サラして、カフェバー始めて、そこでやらせてもらったことある」北向が言う。ここではこんなふうに、全員が手を休めて会話をする時間が一日に一度はあった。そうでもなければ、十四時間も椅子に座ってかたかたとキイを打ち続ける作業に気がおかしくなってしまうだろう。もっとも、イベントや他支社とのスカイプ会議もあり、決してずっと作業ばかりをしているわけでもなかったのだけれど。

 「私、コーヒーミル持ってるんです」加奈が続けた。

 「え、コーヒーミルク?」

 「お前、それ以上言うと常識ないのバレるぞ」小寺と北向が漫才のようなやり取りを始める。

 「やっぱり挽きたては美味しいです。健康にもいいと思うので、会社に持ってきましょうか」小寺の天然ボケを無視して、加奈が言った。

 「それならさ」リナは思いついて言ってみた。

 「今度の日曜、うちでお茶会しません? わたしたち、仕事が早く終わってもいつも飲みに行ってばっかりだし、たまには本格的なコーヒーでゆっくりとした時間を楽しむっていう。わたし日曜は朝が遅いので、四時集合とかで」
 いいねえ、と馬場が言い、あとの三人も続いた。他のみんなの休日の過ごし方は知らなかったけれど、三日前に招集をかけて全員が揃ってしまうほどには、彼らも似たような過ごし方をしているのだな、とリナは心のなかで苦笑した。

 そして今日を迎えている。

《後編に続く》

【加奈ゆうが持っているコーヒーミル】

【作者が持っているコーヒーミル】

【北向はいつもこれを通販で購入する】

【リナもインスタントコーヒーとはいえど、かなりこだわっています】

あとがき

この物語を楽しんでいただけましたか?
「夜のお茶会」って、なんだか健全なような不健全なような、不思議なわくわくした気持ちになりませんか?

面白かった! ほっこりした! と思ってもらえたら、以下のリンクよりnoteを購入(100円)していただけると活動の励みになります(*^^*)
※内容は同じです

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

One thought on “夜のお茶会 〜前編〜

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。