働くママ。美しい妻。

女性

 「うっわー。めっちゃおしゃれなケーキ屋さんやんか。北海道って案外都会やねんなあ」慶子が体を反り返しながら、店の天井にぶら下がるシャンデリアを見上げている。

 「ちょっと慶子。ここ北海道やで。大阪ちゃうから」

 「あ、ごめん。でもあんた、うちが和歌山に遊びに行った時もおんなじことゆうてたで」

 北海道に来て十年と少し。笹原香代(ささはらかよ)はすっかり札幌の地に馴染んでいた。二十八歳で会社を辞め、日本縦断の旅の途中で和樹に会い、ここで結婚した。人生はわからないものだ。高校の同級生だった今野慶子(こんのけいこ)は、四十歳を迎える今年、ついに結婚することになったらしい。それはつまり、香代も四十歳を迎えていることを意味していた。慶子は勤めていた会社を退職し、東京の旦那さんと一緒に暮らし始めるまでのあいだ、全国の知り合いを巡り回っているらしかった。

 「ほんまに久しぶりやな」香代は店の奥側にある四人席に着きながらそう言った。お昼時だからか、店内にさほど客は見当たらない。ここはケーキで有名な店だったけれど、ランチも悪くなかった。

 「にしても、慶子全然変わらへんなあ。だって十年ぶりぐらいちゃう? 結婚式来てくれて以来やろ」

 「そう? それはありがとう」慶子はまだ引き締まったままの二の腕のシルエットが見える、細身のカーディガンをひるがえしてみせた。膨れているわけではないのに、頬もぱりっとしてみずみずしい。正直言って、香代は自分の肌を恥じたほどだった。この子、昔は美容になんて全然興味なかったのに。

 「ま、この歳まで独身やと、他にお金かけるところもないしなあ。子どもも産んでへんし」慶子はメニューを見ながら昼食を吟味している。四十歳の女が美しさを保とうと思ったら、それなりの時間と金と努力が必要なのだ。

 「なあ、店入ったとこにあったクロワッサン、見た? アホみたいにでかかったな。絶対おいしいやつやで、あれ。うち、あれとドリアのセットにするわ。デザートのケーキ付きな」

 「じゃああたしも同じセットにするわ。ひかるが去年小学校に上がってから、やっとゆっくり外でランチとかできるようなってん」香代はさりげなく店員と目を合わせて、合図をした。

 食事が運ばれてくるまでのあいだ、二人は十年ぶんの時間を埋めにかかった。どちらも高校生の頃から少しも変わっていないとも言えたし、何もかもがすっかり変わってしまったとも言えた。慶子は相変わらず冗談を言うのが好きで、香代はその巧い冗談に笑うたびに、自分が大阪人ではなくてよかったと心底思うのだった。和歌山なら、まだ面白くない人間でも言い訳が立つような気がした。

 「にしても、あの保守的な香代がまさか会社辞めて、そのまま北海道で結婚とはなあ。人間って変われるねんな」

 「そういう慶子だって、大学の時ぐらいまでは早よ結婚して専業主婦なりたいって言ってたやん」自分の場合は辞めざるを得なかったようなものだったのだ、と心のなかだけで呟く。

 「まあ、なあ。仕事が思いのほか楽しかったっていうのもあるし、ほら、最初の彼氏が最悪やったっていうのもあるし」慶子は細かい氷の入ったプラスチックのグラスを指で弄びながら、わずかに気まずそうに言った。

 慶子は、大学四年の時から五年間付き合った男にひどい裏切られ方をした。それから彼女は男という生き物を信用しなくなり、男性と人間関係を築くときも、その人の男の側面とは付き合わないように注意している、と言っていたほどだった。だから香代は、慶子がついに結婚することになったと聞いて、驚いたくらいだった。

 「ひかるちゃん、もう小学生やねんな。早いなあ。まだ一回も会ったことないけど」

 「またあの子が学校休みの時に遊びに来てや。旦那さんとでも」香代は久方ぶりの自分以外の口から出る関西弁に多少の違和感と心地よさを同時に感じながら言った。

 「うん。夏の北海道もいいって言うしなあ。次は七月とかに来たい」

 「いつから一緒に暮らし始めるん?」香代のコップが汗をかいていた。香代は冷たすぎる飲み物が苦手だった。

 「それこそ、夏から。今が四月やろ、にい、さん、三ヶ月後やな」慶子は指を折りながら、まるで初恋を経験している最中の少女のような笑顔を香代に見せた。香代がずっと昔に置いてきてしまった、真っ白ななにか。彼女の若々しさは、あるいはこういったところから来るのかもしれないと香代は思った。

 「そっか、楽しみやな。それからはしばらく念願の専業主婦楽しむん?」香代は自分が専業主婦をした十年間の、慌ただしさと苦労と、喜びと安堵と、それから退屈のことを思った。

 「いや、東京で仕事探すつもり。結婚したら生活のお金にもちょっと余裕できるし、前からやりたかったイラストレーター目指そうと思って。うちら子どもは作るつもりないし、お互い好きなように生きていくねん」そういう慶子の顔は晴れ晴れとして、香代は親友の持つ自由と美しさを羨ましく思った。

 「香代は?」慶子は目をきらきらとさせながら、身を乗り出した。ああ、変わらないな、と香代は思う。高校生だった二人が駅前のクレープ屋でどれにしようか悩んでいる時も、大学生だった二人が旅行の行き先を検討している時も、慶子はこんなふうに裏表のないまっすぐな瞳で言ったのだ。自分の中にはすでに答えを持っていて、さあ、あなたの番だと言わんばかりに香代の方へその瞳を向けて。「香代は?」と。そして今回のそれは、香代には痛いほどにまぶしかった。
 「香代は、何かしてないん?」

 「何かって?」香代はその問いかけの本当の意味に気づかないふりをした。

 「何かって、何かやん。仕事とか、趣味的なこととか。ほら香代、結婚した時に北海道のガイドなるって言ってたやん。あれはどうなったん?」

 「なかなかタイミングなくて。北海道って関西とは全然違うし、冬とかめっちゃ大変やねん。ひかるもまだちっさいし、小学校上がって手かからんくなってきたと思ったら、小一の壁っていうのがあって。これでも結構忙しいねん」

 「ふうん」慶子はそれだけ言った。

 「和樹も転勤が絶対ないわけではないし、ひかるが小さいうちは家にいてあげよっかなって思ってて。あたし、自分がちっさい頃に鍵っ子やったから、お母さんが家にいてくれてるの憧れてて」香代は自分がやけに饒舌なことにも、言い訳をし続けているだけであることにも気がついていた。

 「そっか。いいと思うで。旦那さん歳下やろ? これからまだまだばりばり働いてくれるやろうし、そういうのもいいと思う」慶子はなんだか慶子らしくなく、妙に優しい感じでそう言った。

 「お待たせいたしました」見上げると、大学生くらいの爽やかな男性店員が大きな盆を両手にバランス良く運んできたところだった。

 「うわっ。めっちゃじゅうじゅう言ってる。焼きたて。やばい。熱いうちに食べよ、いただきます」慶子は再び子どものような顔に戻り、クロワッサンをばりばりと手でちぎってゆく。

 「んんんん。カロリーの味がする。ほら、香代も」

 「わかってるねん」香代は目の前に置かれた食べ物たちを見つめたままに呟いた。

 「ん?」慶子はなにもかもわかっているし、それでいて自分は何も知らない、というふうに香代を見た。

 「今のあたしは、何かからっぽやなって。これといって趣味もないし、仕事もしてへんし、かと言って慶子みたいに美容に気を遣ってるわけでもない。なんか寂れた八百屋で何年も漬かってる漬物みたいやわ」

 「なにそれ」慶子がぶっと吹き出した。けれど香代はどうしても笑う気にはなれず、そのまま顔を伏せて続けた。

 「あたしはもう四十やのに、旦那の和樹はまだ三十四やねん。今年で三十五。あの人とおると楽やけど、あたしってもう、女としても人としても終わりかけてるんかなって思う時があるねん。まだゆうて四十やのに。何がしたいかもわからんし、したいこともないし、せめて外見だけでもって思うけど、これからのひかるの教育費のこととか考えると、服買うのもためらうし、ましてやエステなんて」

 「香代、昔からそうやんな」慶子がふうふうとドリアを冷ます息が、無遠慮に香代の顔に吹きかかった。

 「なんかを始める時にいっつも必要以上に心配しすぎるというか、石橋を叩いても、なお渡らんというか、なんというか。それで結局あとになって、渡ってたらどうなったんやろ、とか言う。会社辞めて北海道行くなんてことしたぐらいやから、性格変わったんかと思ってたけど」

 「あたし、変われるんかな。まだ遅くないんかな。趣味とか、仕事とか、外見とか、ぜんぶ」香代は何か言葉を求めて慶子にそう言った。何か前向きな言葉を。

 「さあ」慶子はあっさりと言い切った。

 「そんなん知らんけど、やりたかったらやったらいいんちゃう。ほら、ここのケーキ屋バイト募集してるで。年齢経験不問やってさ。まずはこういうとこからはじめてみたら?」慶子が席の真横の壁に貼ってある、控えめな貼り紙を指して言った。

 「え、そんな急な」香代はようやくスプーンですくったドリアを口に押しこめながら言った。それはほんのすこし冷めて、食べやすい温度になっていた。

 「ほらな、また先延ばしにする。まあええけどな、でも別にやっても損はないんちゃう。月五万ぐらいにはなるやろうし、ひかるちゃんの教育費のためやと思ったらいいやん。それで和樹さんにも週に一回ぐらい刺し身とか買ってあげたらいいし、香代もちょっとぐらい美容にお金使えるやん」な、と慶子はあの頃と変わらない得意顔で言った。

 そして、慶子の案は案外悪くないように思えた。
 「うん」香代はまじめに貼り紙を眺めてみた。

 「ほんでそんな褒めてくれるんやったら」と慶子は言って、隣に置いたベージュのバッグから何かを取り出した。

 「これ、うちの使いさしやけど、プラセンタのサプリメントと化粧水やねん。うちも別に高いエステとか行ってないで。独身でそういうの頻繁に行くのって、なんかいかにも! って感じがして。ゆうてもう四十やし、ちょっと食べるもの気いつけて、週末に軽く運動して、あとはこれ使ってるぐらい。続けて買ったら、合わせて月に一万円ちょっとやし」

 慶子の手にあるのは、水色とピンクの光沢のあるパッケージだった。裏を見ると、「プラセンタ リセル」「プラセンタ リファイン」と書かれていて、原料には「豚胎盤・豚臍帯」と書かれていた。

 「この漢字、なんて読むん。豚のあと」香代はパッケージから目を離さずに言った。

 「さいたい。へその緒やな」慶子は周りの客を気にしてか、ほんの少し声を落としてそう言った。

 「え、へその緒!?」香代は驚いて顔を上げた。

 「うん。プラセンタって胎盤のことやねんけど、ここのやつは、さい帯が入ってるから珍しいねんて。まあうちはそういう難しい理屈より、使ってみていいかどうかで決めるからあんまり詳しいことは聞かんといてな」

 「ふうん」香代は、テレビショッピングでよく見かける、にんにく、しじみ、青汁のことを思い出していた。

 「それあげるわ」かちゃん、と慶子がスプーンを置く音がした。見ると慶子の皿はもう空になっていた。

 「うちいろいろそういうの使ってみてんけど、あんまりメディアで広告しまくってないやつのほうが、費用対効果が高いことに気づいてん。その会社のやつ、どれも結構いいねん。年齢に逆らわずに歳を重ねるものいいけどさ、やっぱりいざアラサー、アラフォー、ってなっていくとやっぱり気になるよな。やからあげるわ。気に入ったら使ってみて。まあ続けて使うには、バイトせな無理かもしれんけどなあ」慶子は左の口角を上げて、にやりと笑った。

 「ほら、香代も早よ食べや。うちケーキ行きたいし。うち思うねんけどな、ケーキって女をより魅力的にさせる魔法があると思うねん」知らんけど、と慶子はケーキのメニューを開いた。

 「うちな、どんな香代でも好きな自信あるけど、でもやっぱり楽しそうな香代が好きや。あんまり自分を自分で決めつけすぎんでな」

 そやな、ありがとう。香代はメニューで顔を隠したままの親友に聞こえるか聞こえないかの声でそう言って、クロワッサンをほおばった。

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