耐えかねて、夏

酷暑

 ぴっ。ぴぴぴっ。
 女性陣に気づかれないように、できるだけそっとリモコンのボタンを押したはずなのに、その機械音は無情にも、設定温度が下げられたことを皆の耳に届けてしまう。

 「ちょっと馬場さん、また温度下げたんですか?」二つ歳下にもかかわらず、なぜだか慎一よりもいつも態度がデカい由良リナが馬場を見咎める。

 「本社から設定は二十八度って言われてるじゃないですか。ただでさえうちの支社は、馬場さんのためだけに二十五度になっているのに」

 「そんなこと言われても」慎一は薄いブルーのTシャツを、肩の上までまくりながら言う。大学のボート部時代に培った筋肉に、中年を迎えた脂肪が重なってシャツを圧迫している。彼ももう若くはないのだ。

 「お前ら、この温度でどうしてそんな平然としていられるんだ? こっちは熱中症の一歩手前で、仕事もへったくれもないってのに」慎一は照りつけられたアスファルトに横たわるチワワのように、目を潤ませている。

 「ねえ、小寺さん。小寺さんならわかってくれるでしょう」慎一は目の前に座る同僚に助けを求めた。

 「はあ? それあたしが太ってるとでも言いたいわけ? くたばれ」小寺は慎一に目を剥き、これみよがしに熱いコーヒーをすすった。馬場はどういうわけか女性を怒らせてしまうのが得意で、そのルックスにもかかわらずこれまで彼女がいたことは一度だけしかなかった。それもわずか二ヶ月間。

 「馬場さん、ダイエットするって話はどうなったんですか」ユラリナがカーディガンの襟をぐっと中央に寄せながら言った。

 「可及的速やかに」馬場は無表情にそれだけ言った。彼の思考回路は、ほとんどショート寸前だ。

 「お前、このあいだ経費でサーキュレーター買ってやったじゃないか。これでだいぶ涼しくなったろ」上司の北向が、慎一と彼のあいだの床に置いてある小型扇風機のようなものを指差す。

 汗を垂れ流す馬場を気の毒に思ったのか、女性三人もしぶしぶ承諾してくれた。この装置は、エアコンに向けて設置することで空気の循環率が良くなり、結果的に部屋が涼しくなるというものらしかった。結果、女性陣のうちユラリナと加奈ゆうは、カーディガンに加えてひざ掛けを装備することになり、一方の馬場にとっては焼け石に水という結末になった。

 職場における空調環境というのは、何十年ものあいだ利害の一致しない両者で綱引きを続けている。そもそもエアコンなんてなかった時代は、人々がこんなふうに争うこともなかったはずだ、と馬場は思う。それすなわちエアコン無しで暑さに耐えることなのだということには気が付かずに。

 「正義はどこにある」馬場はとろんとした目で呟いた。

 「ついにおかしくなったか」小寺がぱたぱたとうちわをあおぎ、気休め程度に馬場に冷風を送ってくれる。

 「おれはほんとうに暑いんです。死にたいくらい。おれ、みんなに厚手のコートを買ってあげてもいいですよ。だからエアコン、もうちょっと下げませんか? これじゃまるで、灼熱の砂漠でこき使われるラクダのごとき奴隷です。おれはラクダみたく、暑さに耐性がないんですよ。ここはブラック企業なんですか。正義を、取り戻しましょう」正義を、そう呟き続ける馬場に、加奈ゆうは冷めた目を浴びせ続けていた。まるで彼女の視線が馬場をクールダウンさせるのだと言わんばかりに。

 「正義ね」北向はふっと笑い、意味ありげに人差し指を前に構えた。

 「ものごとの良い、悪いというのはね、 つまるところ快か不快か、ということなんだ。 そのものごとに含まれる大多数の人にとってね」

 「つまり?」馬場は動かない頭を左にゆったりと傾けた。

 「多数決民主主義。ここでは、お前はマイノリティーってことだよ、残念ながら。この会社に服装規定がなかっただけでもラッキーだと思え」職場でほとんど一人だけ快適温度を獲得している北向は、そう言って引き出しのコーヒーをまさぐっている。

 北向のその仕草をぼうっと眺めてから、慎一は正面に顔を戻した。コンピュータのUSBに付けた小型扇風機の風が、慎一の顔をやさしく撫ぜる。もっと強く、と慎一は思う。そんな風量じゃ、足りないんだ、と。

 「ぶふっ」慎一の顔を見て、小寺が吹き出した。反射的に慎一は彼女の顔を見上げる。「わかった」

 何が? と慎一は声に出さずに思った。

 「実はさ、六月のボーナスでみんなにちょっとしたプレゼントあげようと思ってたのよ。今回のボーナス、けっこう入るでしょ? で、あんたにあげるプレゼントが決まったよ。楽しみにしてな」普段は男勝りな小寺は、笑うとわりにかわいい。

 「えっ、小寺さん、いい人すぎ」彼女の隣に座るユラリナが、大げさに眉を下げて泣き真似をしてみせる。

 「あ、ありがとうございます」慎一は自分の体温がさらに上がった気がして、あわててタオルで顔を覆った。

【先日職場に設置された、サーキュレーター】

【Amazon.co.jp限定】 ZEPEAL サーキュレーター ホワイト DKS-20W

【慎一の机の上で頑張っている、ミニ扇風機】

Keynice USB扇風機 卓上 クリップ型 静音 USBケーブル1.5m ミニ扇風機 風量2段階調節 360度角度調整 4枚羽根 USBファン – ブラック

【小寺がボーナスで慎一に買ってやろうと思っている品々】
《涼しく感じるタオル》

クールコアタオル ブルー

《吹き付けると、衣類がひんやりします》

シャツクール 冷感ストロング大容量 280ml

あとがき

この物語を楽しんでいただけましたか?
体感温度というのは、本当に人それぞれですよね。
我が家でもよく喧嘩になります。笑

面白かった! ほっこりした! と思ってもらえたら、以下のリンクよりnoteを購入(100円)していただけると活動の励みになります(*^^*)
※内容は同じです

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。