四年前のまっぷると岐阜ハネムーン

 みんみんみん。

 七月の蝉の声が、連なった日本アルプスにこだましている。田舎が涼しいというのは本当なんだな、と曲がりなりにも都会生まれ都会育ちの涼は思う。連続した時間を生き続けている太陽は、人間にとってはもうすぐ朝の太陽から昼のそれに変わる。時間によって、季節によってこうも見え方が違うなんて、まるで年頃の女性の気まぐれみたいだ、と前を歩く遊菜の背中と重ねあわせながら涼は少し笑った。

 若い二人が、七月の平日にふたりきりで歩いていて、「これがハネムーンなんです」なんて言ったら、地元の人はどう思うのだろうか。わざわざこんなところに来なくたって、と言うのだろうか。それとも少し誇らしげに、名産のことを話すのだろうか。あるいは、ハネムーンというのは十日間も休みをとって、金をかけて海外に行くものだというのは、もうオールドファッションになりつつあるのだろうか。

 そのどれであってもよかった。どのみち、涼に選択権はなかった。幼なじみの白川遊菜についに結婚を申し込んだ時、遊菜は結婚の承諾の前に「ハネムーンは岐阜がいい」と言ったのだ。

 「お前、金のことなら心配するな。それくらいは貯金してある」

 「ほんとに岐阜がいいの。だって涼くん、ずっと仕事で忙しくて、二人で旅行なんて行けなかったじゃない。旅行の計画、何度立てても行けなかったじゃない。わたしの家にある『まっぷる』の岐阜版、最新って書いてあるのにもう四年も前のやつなんだよ」遊菜はそう言って半ばふくれ、同時に子どもだったあの頃と同じような、密かな興奮を宿した目を涼に向けた。

 「涼くん、早いってば」繁みの中から、遊菜が涼を呼ぶ声が遠くに聞こえる。半ズボンを履いた遊菜は、ひざのあたりまで群生した草に足を絡めとられていた。

 「だからオシャレはすんなって言ったろー!」涼はもうすぐ妻になる女性に向かって声を張り上げた。

 「そんなこと言って、これハネムーンなんだよ! ちょっとくらい」ひゃっ、と遊菜は跳ね返ってきた雑草をどけるのに忙しそうだ。

 涼の目の前には、単線の線路が伸びていた。まるで定規で線を引いたみたいに、まっすぐ、歪みなく。枕木のあいだから、針葉樹のような葉がのぞいている。奥に行くに連れてだんだんと先細るその二本の線を見て、どういうわけか涼は泣きたくなった。

 「ふうっ、やっと追いついた」線路を見つめて感傷に浸っていた涼の前に、幾何学的な模様をまとったデイパックが立った。きれいに区画整理された地図のようなそのピンク色の文様は、大自然の中でやけに浮いて見えた。涼の背中には、同じ形をした濃い緑一色のそれが乗っかっている。
 付き合って五年目の記念日に、二人揃いで買った、OUTDOORのデイパックだった。どこかに行く時に、同じタイミングで使い始めようと約束したそのデイパックは、三年目にしてようやく陽の目を見た。

 「ここに乗ってるお店、軒並みつぶれちゃてるね」おとなしそうに見えて頑固な遊菜が、丸めて手にした四年前の『まっぷる』をぽんぽん、と左手にぶつけながら言った。

 「だから最新版買っていこうって言っただろ」

 「これだって最新版だもん! 四年前は」こういう遊菜に反論するのは時間と体力の無駄だ、と涼は経験上知っていた。それにしても、ずいぶん長く待たせてしまった。

 「いいねえ、単線。なんか、強さを感じない? 自信を持って突き進んでいく感じというか。なくならないでほしいよね。こういうところ」
 遊菜がふうーっと息をついて、線路を眺めている。

 カシャ。

 涼は首から下げていたカメラを構え、遊菜の後ろ姿を撮った。このカメラを買ったのは、もう何年前になるのだろう。近所の寺の境内で出会ったお婆さんの話を聞いて、半ば衝動買いしたカメラはまだまだ現役だ。数えきれないほど被写体の役目をこなしてきた遊菜は、もうシャッター音くらいでは反応しない。

 ふと、ずっと先まで続く一本の線路を見て涼はなんとも言えない奇妙な気持ちになった。人生はこんなふうに、はじめから決まった一本道じゃないんだ、と。俺たち人間は、行く道を選ぶことができて、そうじゃなかった道もきっとあったはずなんだ、と。

 つまりそれは、涼が大学に行ったであろう人生もありえたし、遊菜と涼が結婚しない人生もあったはずなのだった。そう考えると、涼は今の結果が、幾多の選択の末に得た最良の結果なのかどうか、自信が持てなかった。少なくとも遊菜にとって。

 「なあ、遊菜」涼は遊菜が後ろを振り向けないように、彼女の頭を両手で挟み込んで言った。

 「ん?」こういう時、いつも目を見て言えない涼の弱さを知っている彼女は、抵抗することもなく優しく応えた。

 「お前、本当によかったのか? 今ならまだ取り消せるんだぞ。ほら、大学の時にお前のことが好きだって言ってきた先輩、東京の商社勤めなんだろう? 俺の家みたいに両親が離婚してるわけでもないし、俺みたいに高卒なわけでもないし、そっちのほうが幸せになれるかもしれないんだぞ。よく考えたのか?」

 それは、もう何度も涼が遊菜に投げかけた問いだった。

 ふふっ、と遊菜は前を見たままで笑った。どんな顔をしているのか、涼には見えない。

 「涼くん、この線路見て、パラレルワールドのこととか思ったんでしょ。今じゃなかったはずの人生もあったとか、そんなこと思ったんでしょ。わかりやすいなあ、ほんと」

 涼は目の前の女性に何もかも見通されていることに、少しばつが悪くなった。

 「まず、よく考えてたら涼くんとは結婚しないよ、たぶん。そういう客観的要素だけを考えるならね」遊菜はいつものように否定はせず、あっさりと涼の主張を、本当は全力で否定してほしかった主張を肯定した。

 「だろ、だったら」

 「でもね」遊菜は言葉を継いだ。
 「でも、好きってこととか、結婚とか、一緒にいるとか、そういうのって、よく考えるってこととは対極なんだよ、たぶん。それでね、人生は何本も何本も敷かれている線路からどれを選んでいくのかってことでも、多分ないと思う。別に、運命は一本の線路みたいに決められていて、人間はそこから逃れられないなんて言うつもりもないよ。思うにね、線路は一本もないんじゃないかな。進むべき道なんてない。わたしたちは、ずっとここに立ち止まっていることもできるの。でも、少しでも進もうと思ったら、自分で線路を敷いていくしかない。こつこつと、少しずつ道を切り拓いて、その上を進んでいくしかないの。誰かの敷いた線路を走ることはできない」涼の両手の中で、遊菜の発する小さな声が大きく響いていた。

 「ただ、自分で線路を敷くってことは、自分で行く方向を選べるってことなんだよ。自分次第で、どこへでも行ける。それで、あとから振り返ったら、そこに一本道ができていたってだけのことなんだよ。そう思わない?」

 涼は何も言えないでいた。これまで自分をがんじがらめにしていた無数の感情が、遊菜の言葉をもって溶け出していた。それはまとまった言葉にはならず、ただ熱いしずくとして、涼の頬を通りすぎていった。

 「それと、これは今思いついたんだけど、線路って二本で一組じゃない? ずっと同じ幅で、どこまでも寄り添って伸びている。わたしの言いたいこと、わかる? ちょっとロマンチックすぎるかな」えへへ、と遊菜は顔を下に向けた。

 「うん」涼はやっとそれだけ言って、遊菜を後ろから抱きしめるようなかっこうで、首に下がるカメラを遊菜の前へ回した。広い大地に、涼と遊菜ふたりだけになった。

カシャ。

【二人お揃いのOUTDOORデイパック。軽くてよさそうです】

OUTDOOR PRODUCTS(アウトドア プロダクツ) DAY PACK 452U FUCHSIA(PINK) 452U

【例のお婆さんと会ったあと、涼が衝動買いし、ずっと使っているカメラ】
涼がカメラを買う経緯は、以下の物語をご参照ください。
カメラと空と走ること


Canon デジタル一眼レフカメラ EOS Kiss X7 ダブルズームキット EF-S18-55mm/EF-S55-250mm付属 KISSX7-WKIT

【二人は四年前のもので旅行しているみたいですが、みなさんは最新版でどうぞ】

まっぷる 岐阜 飛騨高山・白川郷 ’17 (まっぷるマガジン)

あとがき

この物語を楽しんでいただけましたか?
実は、四年前に友人と岐阜旅行を計画して、流れてしまった時の「まっぷる」が自宅にあります…笑
近いうちに行ってみたいです!

面白かった! ほっこりした! と思ってもらえたら、以下のリンクよりnoteを購入(100円)していただけると活動の励みになります(*^^*)
※内容は同じです

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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