おひとりさまのハイキングコーヒー

 「この辺りの観光って言ったら」そう言ってパンフレットを指差しながら、興奮気味に話す観光協会のスタッフの声がまだ耳に残っている。
 「そりゃあもう、保津川ラフティングは外せないですよ。なんてったって、嵐山の渡月橋の方まで行くんだから。今はまだ暑すぎるってわけでもないしね、いい季節だと思います。あるいは、」彼女は次々とパンフレットをめくり、聡美に亀岡市の魅力を伝えようとしていた。しみの目立つ日焼けした手をせわしなく動かし、次に見せるべき一枚を探している。

 聡美は、その人が目の前に置いてくれた冊子の表紙を眺めていた。新緑に包まれる中、大学生くらいと思しき男女のグループが、水しぶきをあげて楽しそうに川下りをしている。その笑顔は弾けんばかりで、まるで彼ら自身が、川を泳ぐ生きのいい魚みたいだった。

 「あるいは」スタッフが差し出した新たな紙に、魚たちの笑顔は覆われた。
 「温泉もあるし、美術館もあるし、お酒が好きなら酒蔵で利酒なんてのも」

 ゴールデンウィークから一週間ずらして取った休みの初日。隅野聡美は一人で京都の亀岡市を訪れていた。勤めている証券会社の決まりで、ひと月に一日は有給休暇を消化しなくてはならない。
 しかしそれは当然のごとく輪番制のようになっていて、同僚たちと休みを合わせるというわけにはいかない。もっとも、休みの日まで同僚と顔を突き合わせるというのも遠慮したかったが。そして、高校や大学時代の友人たちの中にも、金曜日から始まる二泊三日の旅行に一緒に行ける者は残っていなかった。

 かつては。社会人になってから数年のあいだは、そうではなかった。有給休暇をなんとか合わせたり、あるいはサラリーマンをしていない友人と旅行に行ったりもしていた。前に誰かと旅行に行ったのなんて何年前だろう、と聡美は思いを巡らせた。彼女たちは揃って東京に行き、あるいは結婚し、ひとり残らずどこかへ行ってしまったみたいだった。
 もしかしたら、みんなSNSの上だけの世界に行ってしまったのかもしれない。半ば本気でそう思うくらい、聡美と「彼女たち」の世界は大きく隔たってしまった。

 聡美は今年三十歳を迎える予定になっているが、社内で付き合っている横山との結婚はいまだ現実味を帯びてこなかった。どうだっていい、とさえ聡美は思っていた。近ごろ、物ごとに興味を抱き続けることに難しさを感じていた。何がどうなったって構うものか。考えるのも面倒だった。これが歳を取るということなのかしら。

 「ほら、ご自分で八ツ橋を作る体験なんてのもございますのよ」観光協会のスタッフの声で、聡美の思考は中断された。見ると、いつの間にか机の上はチラシでいっぱいになっていた。

 「せ、おほん、せっかくなんですが」しばし沈黙を強いられていた聡美の喉は、咄嗟にうまく声を出すことができなかった。
 「ハイキングがしたくて。ハイキングコースのマップをいただきたいんです」聡美は、ここに入ってきた時と同じセリフをもう一度、今度は注意深く述べた。

 「ハイキングって、あなた四国の方から来たんでしょう。何もわざわざ山になんて登らなくたって」

 「でも、ここのハイキングコースは素敵だって聞きました。山から眺める保津川の景色は格別だって」聡美はなるたけ愛想がよく見えるように、にっこりと笑った。ハイキングだって、立派な亀岡市の魅力ですよ、と女性を説得せんばかりに。

 「そうなのよ」案の定、目の前の女性は誇りを取り戻したように見えた。
 「はい、これマップね。道に迷わないように気をつけて。たくさん写真撮ってね」

 「どうもありがとうございました」

 聡美は、予想外に時間を食ってしまった観光案内所をあとにした。
 あの女性は、この仕事が好きなのだろうか。この街を誇りに思っているのだろうか。毎日、楽しいのだろうか。

 くだらない、と聡美は思った。人生やりたいことをやって、24時間365日楽しく過ごせるなんて、幻想だ。それを目指すことさえ、ナンセンスなのだ。子どものころは、ううん、十年前まではそうじゃなかった。今の努力が、将来の輝きにきっと繋がると信じてやまなかった。努力は決して裏切らず、いつか報われるはずだった。
 けれど、ある時から息が切れてきたのだ。楽しい状態を保ち続けることを目標にしていると、楽しいことがだんだんと楽しいと思えなくなってきた。

 なんのために?
 なんのために?
 なんのために?
意味なんてないように思えてきた。そして思考はゆるやかに死んでいくようだった。

 ぽつん。
 見上げると、聡美の頭上に雲がかかっていた。そこから雨がひとしずく、聡美の方へこぼれ落ちてきたらしい。さっきまで晴れていたのに。
 それでもかまわず、聡美は山の方へと足を向けた。山の天候は変わりやすい。それは晴れから雨だけではなく、その逆にも当てはまるはずだ。
 何より、聡美には時間の余裕がなかった。旅程は詰まっている。この三日間を終えたら、またくだらない毎日に戻っていくのだ。不満というほどはっきりとした感情ではなかった。それは、大人になることの「しるし」みたいなものだった。

 聡美は旅行が好きだった。それは、会社員をしているとより輝いて見えた。社会に出てみてよかったと思うことは、「毎日楽しいことなんて期待せずに、目をつむってやり過ごしているような時のほうが、案外ひょっこりと楽しさを感じられる」という経験則のようなものだった。要は、楽しさのハードルを下げるようなやり方だ。
 だって私は、一部上場企業に勤めていて、恋人だっている。両親との関係も良好。ルックスだって悪くない。趣味は旅行。これ以上、三十歳の女の人生に、何を望めばいいというのだ?

 じゃり、じゃり、と足が地面を踏む音が聞こえる。早くも太ももの前側が熱くなってきた。背中に背負っているコールマンのリュックの中には、山の上でコーヒーを沸かすための道具が詰まっている。

 頂上まで行ったら、と聡美は思う。
 この山のてっぺんまで登ったら、家から持ってきた特別のコーヒー豆をゆっくり挽いて、ひとり分のコーヒーを贅沢に沸かすのだ。聡美はハイキングの中でも、この瞬間が格別に好きだった。
 この幸せを受け取る権利はある、と聡美はしっかり自分に言い聞かせた。私は、みんなが疲れた体にむち打って働く金曜日の午後に、京都の山に登って挽きたてのコーヒーを飲む幸せを味わっていいだけの生き方をしている。誰にも文句は言わせない。

 がり、がり、がり。
 一回しするごとに、豆が細かく挽かれていくあの音を思い出してみる。ゆっくりと湯がフィルターを通り、コーヒーの香りが鼻の奥をくすぐる感覚を思い描いてみる。聡美の心のなかに、幸福が広がっていった。大丈夫だ、何も間違ってはいない。
 ふと下のほうを見ると、樹々の緑と川の流れの白のあいだに、自ら跳ね上がるように見え隠れする黄色と橙色のヘルメットが見えた。あれがラフティングか、と聡美は思う。そしてもう一度山の上の方へ体を向け、今度こそしっかりと登っていった。

 雲の隙間から、陽の光がのぞいている。ほらね、と聡美は笑った。間違ってなかった。

【コールマンのリュック】

[コールマン] Coleman リュック ウォーカー25 CBB4501BK BK (ブラック)

【山登りコーヒーセット】
『手挽きコーヒーミル』

E-PRANCE® 手挽きコーヒーミル セラミック ステンレス コーヒーミル手動

『コーヒーバネット』

ユニフレーム(UNIFLAME) コーヒーバネットcute(キュート) 664025

『ペーパーフィルター』

HARIO ( ハリオ ) V60 用 ペーパーフィルター 01M 1~2杯用 100枚入り みさらし VCF-01-100M

『モンベル(mont-bell) ケトル』

モンベル(mont-bell) ケトル アルパインケトル16 1124556

『バーナー』

PRIMUS(プリムス) P-153 ウルトラバーナー

【木のマグカップ「ククサ」】
フィンランドの北部、ラップランド地方では、腰にこのカップを付けて森でコーヒーを飲むそうです。
白樺の木を繰り抜いて作られる、芸術品です。

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【八ツ橋は、この固いやつのほうが好きです。生八ツ橋も悪くないけれど】
というか、八ツ橋までAmazonで買えてしまうことに衝撃。

京栄堂 角切八ツ橋 230g×5袋

あとがき

この物語を楽しんでいただけましたか?
夏は暑いですが、春や秋のハイキングは大好きです。
山上コーヒーは憧れです。

面白かった! ほっこりした! と思ってもらえたら、以下のリンクよりnoteを購入(100円)していただけると活動の励みになります(*^^*)
※内容は同じです

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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