沈みゆくオレンジを眺めて 〜淡路島へ女二人旅〜

明石海峡大橋

 「いい風だね」波止場のブロックに腰掛けながら、夏海が呟いた。

 西の空へ沈みゆこうとする太陽の光で、彼女の顔がオレンジ色に染まっている。思わず身を隠したくなるほどの突き刺すような昼間の陽光に比べ、この時間の光は穏やかに生き物を包み込む。

 「そうだね」隣で腰に手を当てた格好で、小寺美波(こてらみなみ)は斜め前に座る姪の戸田夏海(とだなつみ)を見下ろした。夏海の髪も腕も、膝丈のジーンズに白のTシャツを身につけた自分の体も、地球にあるすべてがオレンジ色をしていた。
 それは、いつも自分たちだけのものだと思っている体、海、大地が、あくまで借り物に過ぎないのだということを優しく教えてくれているようだった。

 お盆休みのまっただ中である今日、美波と夏海は二人で淡路島に来ていた。美波の姉夫婦は互いに証券会社に勤める共働きで、よく小寺家の実家に娘の夏海を預けていた。そのせいもあってか、夏海は四年前まで実家暮らしをしていた美波によくなついていた。美波は自分のことを「叔母さん」とは呼ばせず、「美波ちゃん」と呼ばせていた。

 夏休みには当然のごとく夏海が小寺家に入り浸ることになり、お盆休みがない姉夫婦に代わって、この時期は美波が夏海を遊びに連れていくことも少なくなかった。もっとも、美波の勤める会社にも、お盆休みなどあってないようなものだったけれど。

 夏海が小学校高学年になる頃から、二人で二泊三日の旅行に出かけるのが恒例になっていた。叔母と姪との奇妙ともいえる二人旅は、夏海が高校二年生になった今でも続いている。旅行二日目の今日、二人はあわじ花さじきと伊弉諾神宮を回ったあとで少し泳ぎ、旅館に帰る途中だった。ちょうど日が沈むところで、夏海が車を停めてほしいと言ったのだ。

 「なんかさ」ブロックに腰掛け、背中の後ろに手をついたままで夏海が言った。
 「あたし、美波ちゃんって自分にとってどういう存在なんだろうって考えることがある」

 「え、母親の妹ってだけじゃなくて?」美波は夏海の意図を図りきれずに言った。

 「母親の妹って、なんかよくわかんなくない?」夏海が美波の方を振り返り、化粧を施した長いまつげをまとった瞳を細くして笑った。「母親はまあわかるけど、母親の妹ってどういう存在よ?」

 「確かに」美波はうーんと考えこむ仕草をして言った。

 「それにさ、うちパパもママも全然家にいないじゃん。だから、余計にわかんない。母親がうちにいたら、こんな感じなのかなって、美波ちゃんといると思う」

 「あんた、私がまるでずっと家にいるニートみたいに言わないでよ」美波は夏海の気持ちが痛いほどわかるがゆえ、それから目をそらすように冗談めかして言った。

 「でも美波ちゃん、あたしが小三になるくらいまで家にいたでしょ? あれがニートってことだったってのは、最近まで知らなかったけど」

 「ちょっと、声が大きい」美波は慌てて周りを見回した。そこには二人が乗ってきたクリーム色の軽自動車が置かれているだけで、その他には虫一匹いないほどの静寂が広がっていた。

 「なんか、ときどきすっごく寂しくなることがあるの。枕元にぬいぐるみたくさん置いてさ、抱きまくら抱えて寝るの。もう十六歳なのに。子どもみたいだよね」夏海が自嘲っぽく笑った。美波は何も答えず、夏海が言葉を続けるのをじっと待った。
 「ママもパパも、あたしのこと愛してくれてると思う。物には不自由しないし、仕事から帰ってきたら普通に話もする。学校のことも気にかけてくれるし、あたしもわざわざ二人に心配かけるようなことをしようとは思わない」夏海は夕陽を見つめて、美波がそこにいることを忘れているような話し方をした。

 太陽は、姿を消す直前にだけ人間にその姿を直視することを許してくれる。まるで自分は消えてゆく瞬間が一番美しいのだと言わんばかりに。夜のあいだも、自分を思い出してもらえるように。太陽は、寂しがりやなのかもしれない、と美波は思った。明日の朝、同じように地球を照らすことなどできないかもしれないと恐れているようにさえ見える。それはきっと、自分が行き場のない毎日を繰り返しているからだろう、と美波は一方で知っていた。家にいたあの頃、私はずっと寂しかった。そしてそれは会社で働くようになった今もあまり変わらない。自分の孤独感が、太陽に映っているのだ。

 「でもさぁ」突然、夏海が大きな声を出した。それが、自分が泣いていることを隠すためだと美波が悟るまでに、何秒かかかった。
 「でもたまに、すっごい悪いことしたくなるんだよね。犯罪めいたこと。パパもママも悪くないし、別にあたしも悪いことしたいってわけじゃないんだけど、なんて言うか、社会への腹いせみたいな? この世ってけっこう生きづらいよね。あたしが弱いだけかな。ママとパパがね、本当は、本当の本当の心の底では、あたしなんていらないって思ってる気がしちゃうの。そしたら二人も自由に仕事して、自分の時間持てるじゃん。あ、これ二人には内緒だよ」

 「夏海って名前ね」美波は夏海にかけてやる適切な言葉が見つからず、思わずそう言った。どうして彼女の名前のことなど持ちだしたのか、自分でもわからなかった。「なんで夏海なんだか、知ってる?」

 「知ってるよ。小学校の時の授業で、そういうのあった。パパがママをナンパしたのが夏の海だったんだって。バカみたいでしょ。そんなの恥ずかしくて先生に言えないよ。それに、あたしが生まれたのって十二月だよ。どうしたらあの人たちみたいにテキトーな二人から、あたしみたいな繊細なのが生まれるわけ」繊細なの、というところで、夏海が特別言葉を強調した。

 確かに夏海は繊細な少女だった。豪快で活発な母親と、優しいけれど少し軽いところのある父親との二人の子どもにしては、少し不自然なくらいに。

 「あたし、二人の本当の子どもじゃないのかもしれない」涙ぐみながらそういう夏海に、美波は思わず微笑まずにはいられなかった。夏海が前を向いたままでよかった、と美波は思った。この純粋無垢な少女は、きっといい大人になるだろう。その芽を摘んではいけない。

 「実は私とお姉ちゃん、本当の姉妹じゃないの」美波は少し声を落とした。

 「え」思わぬ展開に、夏海は涙で濡れたままの顔を美波のほうへ向けた。

 「お父さんは同じなんだけどね、お母さんが違うんだ。お姉ちゃんのお母さんはね、死んだの。お姉ちゃんが三歳の時に、夏の海で。その時のこと、お姉ちゃんはっきりと覚えてるんだって。ビールを買いに行くお父さんを待ちながら、浅瀬で浮き輪に揺られてたの。それでお姉ちゃんのサンダルが脱げて流されちゃって、お母さんはそれを追いかけて泳いで、溺れたんだって。まるでお母さんのお腹の中にいるみたいだった、ってお姉ちゃん言ってた。お母さんが溺れてるのを、ゆらゆらと生温かい海水に揺られて見てたんだって。入るときはあんなにも冷たいのに、慣れちゃうと温かいなあって思ってたんだって。その時のお姉ちゃん」

 「それで夏海? なんで?」理解し難いとでも言いたげに、夏海が眉をひそめた。

 「夏の海って、お母さんみたいだって思ったらしいよ。火照った体を冷やしてくれたり、同じ温度で人の体を温かく包んでくれたり。あの時溺れたお母さんが溶けこんでるのかもねって言ってた。ちょっとぞっとしたけど、お姉ちゃんはそこにお母さんの姿を見出すしかなかったんだよ。だから、夏海はお姉ちゃんにとって、ただの愛しい娘じゃないと思う。なんていうか、絶対に必要な存在なんだよ。ちょっと変わった愛され方かもしれないけど、なんとなくわかる?」

 「わかんない」夏海は膝に顔を埋めた。そうだよね、と美波は思う。話してる私だって、よくわかんないもん。

 「それがわかる歳になるまで、お姉ちゃんは話さないでおこうって思ったんだと思うよ。とにかく、夏海は間違いなく戸田家の子だって言いたかっただけ。ホテル帰ろっか」美波は、ここがタイミングとばかりに手のひらを組んで伸びをした。沈みかけた太陽が、海に溶け込もうとしていた。

 お姉ちゃん、海が温かいのはね、たぶんお日様が溶けこんでるんだよ。お姉ちゃんのお母さんは、きっと天国にいるよ。海の中でもなく、娘の中でもなく。帰ったらお姉ちゃんと話をしよう、と美波は思った。

 車の後部座席には、夜に夏海とガールズトークをするためのおつまみが大量に詰まっている。今日はこの子をうんと甘やかしてやろう。太陽のそばには船が一隻、終わらない太陽到達への道を進んでいた。

明石海峡大橋

【MOGU 気持ちいい抱きまくら 本体(カバー付)】
夏海が愛用する抱きまくら。
寂しい夜にはこいつが活躍。

【菊正宗 ご当地つまみの旅 7種セット 計7袋】
酒飲みの美波には、こういうおつまみが欠かせません。
お酒の飲めない夏海も、一丁前におつまみだけは好きです。

【丸善 かまぼこで包んだクリームチーズ 5個×5袋】
クリームチーズと練り物って、どうしてこうも合うのでしょう。
はんぺんにチーズ入ってるやつも好きです。

あとがき

この物語を楽しんでいただけましたか?
親には言えないことでも叔母さんには言えたり、
普段言えないことでも旅行中には言えたりすることってありませんか?
非日常な時間、空間が人を素直にさせるのでしょうか。

面白かった! ほっこりした! と思ってもらえたら、以下のリンクよりnoteを購入(100円)していただけると活動の励みになります(*^^*)
※内容は同じです

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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