一緒に観たい『ズートピア』、ときどきレンコンのはさみ揚げ
ディズニー映画『ズートピア』のブルーレイ/DVDが発売されましたね!
今日は『ズートピア』のAdnovel(広告小説)です。
片親の主人公が、初めて母親の心に踏み込むお話です。
お楽しみください。
《本編》
「ただいま」
沈みかけた太陽の最後のぬくもりを玄関からわずかに招き入れながら、柊木涼は靴を脱いだ。半袖のカッターシャツの裾をたくしこんでいるズボンの腹回りが熱を持っている。日が短くなったとはいえ、まだまだ夏の暑さはしつこく地球にしがみついていた。
「お帰りなさい。遊菜ちゃん、先に見ちゃってるわよ。ごめんねえ」
玄関からほとんど丸見えのリビングから声だけで涼を迎えたのは、十年前に結婚した嫁の遊菜、ではなく母親の光子だった。誰もいないと思っていた薄暗いリビングから声がしたので、涼は肝をつぶした。
「びっくりした。何してんだよ、電気も点けないで」クールビスのため、ネクタイのない首に所在無げに手をやりながら、涼はリビングに足を踏み入れた。
「あ、涼じゃない。今日はやけに早いのね。仕事、クビにでもなった?」あはは、と光子は陽気な声を立てて涼のほうに向けた首をテレビのほうへ戻した。
「馬鹿言うなよ。今日は営業先から直帰だったの」母親の視線の先を追うと、テレビではディズニーの新しい映画が流れていた。前に遊菜と光子が観に行きたがっていたのだが、涼の仕事の都合やらなんやらかんやらで、結局上映期間中に見に行けず、DVDを予約していたのだ。
「ズートピア。お昼過ぎに届いたのよ。遊菜ちゃんと一緒に見たかったんだけど、今日はお料理番組の撮影で出かけるって言うから、先に見ちゃった」
えへへ、と光子は年甲斐もなく照れた仕草をしてみせる。
「遊菜からさっきLINE来てたわ。撮影終わって、もうすぐ撮影で作った料理持って帰るから晩メシ待っててってさ」
「そう、楽しみだわ」光子はそう言って、また映画の世界へ入っていった。
光子の言ったとおり、涼がこの時間に帰宅するのは稀なことだった。三十を過ぎた涼は、勤めている製薬会社で係長に昇進していた。いつもなら嫁の遊菜と光子が先に夕食を摂り、涼が二人から二時間ほど遅れて食べるのが普通だった。
嫁の遊菜と母親の光子の仲が良いのは、涼にとってはありがたいことだった。十八歳の時に両親が離婚し、それから光子は涼たち三人の子どもを一人で育ててくれた。弟の佑介も、妹の美里ももう結婚した。三年前、いよいよひとりきりになるところだった母親と一緒に住もうと言い出してくれたのは、遊菜だった。
涼と遊菜には、子どもがいなかった。と言うより、できなかった。まだお互いに子どもを諦める歳でもないが、遊菜はもう不妊治療にも疲れたようだった。
「ね、お義母さんと一緒に住もうよ。わたしだって寂しくなくなるし、家だって一つのほうがいいじゃん」そう言って遊菜は、屈託なく笑った。
片親ということで、遊菜にはそれなりに苦労をかけてきた。良家に育った遊菜は、最初のうちは小さな家で毎日節約のことを考えて過ごすことに慣れないでいた。それでも、新婚のうちはお互いのほかには何もいらないのだ。そして、遊菜は涼が小さい頃から心を決めていた人だった。
遊菜は大学を出たあとしばらく会計事務所で働いていたが、体を壊して二年で辞めた。それからは家で専業主婦をやっていたが、趣味で料理の写真をアップしていたブログがあたり、最近は料理愛好家としてテレビに出たりもしている。
あいつかわいいからな、と涼はシャワーを浴びながら思う。遊菜はそこにいるだけで、それだけでもう十分なのだ。子どもなんてできなくたって。一時期、遊菜はそのことをひどく気に病んでいた。光子が孫を心待ちにしていたせいもある。
けれど、光子と遊菜は思いのほか馬が合った。涼と遊菜がまだ小さい頃から、光子は二人を知っていた。血の繋がった遠い親戚よりも、あるいは近い存在だった。一緒に暮らすようになってから、遊菜は明らかに元気を取り戻したようだった。光子の底抜けの明るさに救われた部分も、少なからずあるのだろう。
他の面で苦労があった分、柊木家には嫁姑問題はなかった。遊菜は嘘をつけるようなタイプではないし、彼女の口から光子への不満を聞いたことはなかった。うまくできているものだ、と涼はシャンプーを流しながら天を仰いだ。
「あ、見終わったの」涼がシャワーから戻ると、光子は机に食器を並べているところだった。
「ウォウォウォウォウォーウ。トライエブリシング〜」涼の問いかけに、光子はおそらくは映画の主題歌であろう歌と、大きな頷きで応えた。
「ね、『ズートピア』ほんとによかったわよ。遊菜ちゃんが帰ってきたら、もう一回三人で一緒に見ようよ」そう言いながら、光子は機嫌よくステップを踏んでいた。
「飽きるよ」涼は呆れたように笑った。
光子とふたりきりになるのなんてどれくらいぶりだろう、と涼ははっと気がついた。そもそも、小さい時から数えても、母親とふたりきりで時間を過ごしたことなどほとんどなかったような気がする。人前で涙を見せたりしない明るい母が、実のところどういう人間なのか、涼はあまり知らなかった。
離婚など並大抵の覚悟でできることではない、と涼は結婚して初めて気がついた。気まぐれや自分勝手だけで成し遂げられることではないのだ。そのあとの経済的不安、精神的負担、子どもへの気後れ、世間からの目。あらゆることが、当時の光子を襲ったはずだった。それでも彼女は、泣きごと一つ言わず、朝も晩も働いた。涼は、少なくともひもじい思いはしたことがなかった。
「母さん」涼は食卓の椅子に腰掛け、机の上に視線を定めたままで母親に呼びかけた。
「なに?」光子は手を休めずに言う。
「母さんさ、寂しいとか思ったことないの」
「どうしたの突然。あ、わかった。最近遊菜ちゃんに相手してもらえないんでしょ」光子はあくまでも冗談めかした口調を崩さない。
「いや、そうじゃなくて」涼はなおも食い下がった。そろそろ、母親の泣きごとを聞いてやれるくらいの年齢になっただろうかと心のなかでは思っていた。それとも、そんなのはただの背伸びした自己満足だろうか。
「母さん、離婚したじゃん。そういうのとか。俺たちにも甘えたりしないし」
「あらら、心配してくれてるの?」光子は胸の前で手を組み、いたく感動した素振りを大げさにしてみせた。
「再婚とかさ、すれば? 美里も結婚したんだし」涼は軽い気持ちでそう言った。
「いいのよ。今さら新しい誰かとイチから関係築こうと思わないし。もう知らない人と話すの、お仕事だけで疲れちゃったの」光子はそう言って困ったように笑った。一瞬、光子の本音を聞いた気がした。
「あ、それとも」光子が大きな声を出して、閃いたというふうに人差し指を立てた。
「もしかして私、二人のお邪魔かしら? だったら出て行くけど……」
「そういうことでもないって」涼はすでに、しっかりと母親の顔を見て話していた。
「母さんさ、ずっと文句ひとつ言わずに俺たちのことしっかり育ててくれたじゃん。怒る時もあったけど、俺たちに八つ当たりとかはしなかった。そういうのは、子どもでもちゃんとわかってたよ」
「それは、あなたたちには不自由な思いをさせたくなくて。寂しい思いはさせちゃったかもしれないけど」
「母さんがいたから寂しくなかった」涼は自分の口をついて出る言葉に、自分で驚いていた。
「でも母さんは? 母さんは寂しくなかったの? 考える間もないくらいに働いて、でもいつかは独立していく俺たちのこと見ながら、寂しいって思わなかった?」
「そんな気持ち、忘れちゃったよ」そう言うのと同時に、光子の両目から涙がこぼれた。
「あれ? どうしたのかしら私。寂しいなんて、思ったこともないのに。あなたたちの幸せを、ずっと願ってきたのに。ごめんなさいね、なんだかこんなの自分勝手よね」光子はしわの目立つようになった手で、必死で涙を拭いていた。それでも、何十年も抑えこまれた感情は、せきを切ってとめどなく溢れた。
「ありがとな」涼は光子の後ろに立ち、背中をさすった。ずっと頼りきりだった母親が、今は一人の小さな女性に見えた。遊菜と変わらない、守ってやるべき存在だと感じた。
「ずっとずっと、本当にありがとう。母さんは、ちゃんと俺の家族だ。遊菜も、そう思ってるよ。あいつも、母さんにずいぶんと救われてるんだから。だから、自分のことを邪魔なんて言うなよ」
光子の声は、もう声にならなかった。涼は、初めて見る母親の涙を受け止めたいと思った。この人の中にずっと溜め込まれていた悲しみも、寂しさも、後悔も、不安も、何もかも全部。もしそれが涼の手に余るものだったとしても、とにかく洗いざらいここにぶちまけてしまいたいと思った。
十五分か二十分、時間にすればそのくらいだったろう。
光子が落ち着いたタイミングを計ったように、遊菜が帰ってきた。
「お義母さん、涼くん、ただいま! お義母さん、レンコンのはさみ揚げありますよ」顔を見なくてもわかるほどの嬉しそうな声で、遊菜は光子の好物の名を玄関から叫んだ。
「嬉しい。ご飯終わったら、三人で『ズートピア』見ようね」光子は、遊菜に聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、そう応えた。
【ズートピア】
もちろん買いましたが、めちゃくちゃよかったです。
もう、めちゃくちゃよかった。(ボキャブラリー貧相でごめんなさい)
【おすすめ料理本】
料理家と言えば、山本ゆりさんの料理本がとても好きです。
というか、山本ゆりさんが好き。
たくさん本を出してはりますが、どれもギャグ漫画のようにおもしろい。
どれも料理本なんですけどね。
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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