恋愛相談とコーヒー、それから風鈴が鳴る

恋愛相談、というのをあまり人にしたことがありません。
なにもかも、基本的には自分で考えて、自分でさっさと決めてしまいます。

でも、見ず知らずの人になら、あるいは素直に相談できるかもしれません。
いきなり相談された方は迷惑だと思いますが。

人を愛するということは、どういうことなんでしょう。
まだ自分なりの答えを持てていません。

いわゆるマリッジブルーになってしまった女性のお話です。今回は少し長めですが、お楽しみください。

本編

 「と、いうわけ。どう思う、おじさん? あたし、やっぱり彼と別れるべきだと思わない?」カタセナルミ、と名乗る女性が目の前で僕に言った。
 そうか、と僕は思った。彼女のような人からすれば、僕はもうおじさんなのだ。

 「つまりそれは、君が付き合っている男性のあらゆることに耐えられなくなったということなんだね? 結婚を一ヶ月後に控えて」

 「そういうこと。でもこれはたぶん、マリッジブルーなんかじゃない。どういうわけか、あたしには彼の色んな部分が見えちゃったの。今まで恋だったものが、愛に変わろうとする過程で」

 僕はいま、向かいに座るこの女性からわりに真剣な恋愛相談を持ちかけられていた。日曜日の朝。毎週ものさしで測ったようにきちんと決まった時間の枠組みが、この女性の登場によって、わずかにその流れの波長のようなものを歪めたのを、僕は感じ取った。淡いブルーのブラウスを身に着けた、見知らぬ若い女性によって。

 この日、僕はいつものように喫茶『風鈴』に来ていた。ここはその名の通り、一年通して風鈴を店の軒先に取り付けてある。
 それは夏のあいだは違和感なく涼し気な音を奏で、秋になると出発の遅れた渡り鳥のような哀しげな響きに変わり、冬にはジングルベルになりそこねた孤高の鈴となる。年中同じ音を奏でる風鈴は、同じ毎日の繰り返しの中で、不思議と僕を癒やした。

 平日はガス会社の職員として個人の家を訪問し、土曜日に細々とした用事を済ませてしまう。特に物欲もない、地味な男が一人暮らしているだけでも、世の中には実に多くの手続きと家事の必要が出てくる。

 そして日曜日。一週間のうちで、やらねばならないことが何ひとつないこの日を、僕はそれなりに楽しみに生きていた。
 特に変わったことをするわけではないが、朝の八時きっかりに『風鈴』の扉に付けられた鈴を鳴らし、明るい窓側の席で本を読みながらコーヒーとホットサンドのモーニングを取る。今日は図書館で借りてきた、スコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』を持ってきていた。

【夜はやさし/スコット・フィッツジェラルド】

 僕はまず、コーヒーを口に含んだ。昨日の夕飯を済ませてから十四時間は経っているから、繊細になった舌にコーヒーの苦味が広がる。鼻から静かに息を通すと、香ばしい豆の香りが僕を優しく迎えてくれた。
 この店のコーヒーは、とても美味しい。注文を受けてから一杯一杯、店主が手でコーヒー豆を挽いてくれる。店のカウンターには、たっぷり二杯分は取れそうなカリタ社のコーヒードリッパーが三つ、行儀よく並んでいる。おそろしく時間はかかるし、効率も悪いが、時間を気にする人はここにはやってこない。

【カリタ 陶器製コーヒードリッパー】

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 かりかりに焼いた薄いトーストにハムとチーズを挟んだホットサンドを手に取り、ひと口で三分の一くらいを頬張る。伸びたチーズを手で絡め取るのが子どものようで行儀が悪いが、誰も僕のことなんて見ていない。
 僕がどこでなにをしようと、誰も僕を気に留めたりしない。

 そして彼女が突然、僕の前の席に座ったのだ。

 「ここ、いいですか」

 カタセという女性は、ひどく思い詰めた顔をしていた。まだ大学を卒業したばかりくらいの歳に見えた。

 僕はちょうどホットサンドを頬張ったところだったから、うまく返事ができないでいた。そうこうするうちに、女性はすっぽりと前の席に収まってしまったのだ。

 「来月に結婚するんだけど、それを取りやめたほうがいいんじゃないかって思ってるの」それが彼女の話の始まりだった。

 女性はどうやら、僕の二つ向こうの席から移動してきたみたいだった。
 手にはムーミンのマグカップ、その中に湯気の消えたコーヒーが半分ほど残っている。余談だけれど、この喫茶店では客がカップを選べる。店主が北欧で集めてきたらしいカップが、店の棚にずらりと並んでいる。ここのカップを全種類制覇するのが、今のところの僕の目標のようなものだ。
 人生に目標があるというのは、精神衛生上悪くないんじゃないかと思う。今日僕が選んだカップは、フィンランドの木こりが森に持っていくそれだった。

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 「彼のことは好きよ、もちろん。でもね、こんなふうにも思うの。彼はあたしのことなんて、全然わかってないんじゃないかって。ううん、わかろうともしていないのかもしれないって。だってあたし、客観的事実として彼がどうしてあたしと結婚しようと思ったのか、さっぱりわからないんだもの。そう思うと、こんな状態で二人が同じ屋根の下で暮らすのって危険だと思わない?」カタセさんは、感情の読み取れない表情でそう言った。

 「僕はあまり恋愛経験が豊富な方ではないけれど」と僕は前置きしていった。
 「人と人が、本当の意味で何もかもを分かり合えてしまう方が、危険なんじゃないかな。なんというか、もっとシンプルに考えてもいいような気がする」

 僕は、自分でも驚くくらい自然にカタセさんと話していた。客観的事実(彼女の言うような)としては日曜日の朝、自分だけの時間を邪魔されたわけだけれど、どういうわけか嫌な気分はしなかった。
 まあ日曜日なんていくらでもあるんだから、一日くらいこういうおかしな日があってもいいかもしれない、と思ったのだ。

 「でもね」カタセさんは、なんとか話を自分のそうしたい方向に持っていこうとしているみたいに見えた。まるで彼女の中ではもう心が決まっていて、僕にその背中を押してほしいだけ、というような。

 「でも、あたしと彼じゃ違いすぎるのよ。トイレの蓋のことだとか、洗い物の水の量だとか」
 「トイレの蓋?」僕は話の要点がつかめずに彼女の言葉をくり返した。

 「例えば、の話よ。あたしと彼、同棲してるの。それで、あたしとしてはトイレの蓋を開けっ放しにするようなことって、本当に耐えられないわけ」カタセさんはうんざりとした感じで言った。

 「そうだね」僕はコーヒーを口に含んだ。それはもうぬるくなってしまっていて、強い苦味が僕の舌を突いた。

 「でも、べつべつの環境で育ってきた人間同士が一緒に暮らすというのは、多かれ少なかれそういうことじゃないかな? それを少しずつすり合わせながら、家族になっていく」

 「一般論ではね」カタセさんは僕の言葉を先回りして言った。
 「あたしが聞きたいのは、おじさんはどう思うかってことなの。もちろん決めるのはあたしだけれど、喫茶店にいる見ず知らずのおじさんに聞いてみるのも、悪くはないじゃない?」

 「そうかもしれない」見方によっては被害者であるはずの僕は、小さく相槌を打った。

 「僕の妻の話をしよう」僕はカタセさんの目を見て言った。思った以上に、彼女は真剣な目をしていた。

 「僕は二十八歳の時に結婚した。僕の妻も同じ歳だった。彼女はそのとき乳がんにかかっていて、それから先何年生きられるかわからなかった。だから彼女ははじめのうち、僕のプロポーズを断ったんだ。でも僕は毎日毎日彼女に会いに行って、ついに僕たちは結婚した。そして妻は、五年後に亡くなった。すごくすごく頑張って、死んだ。でも僕たちは深く愛し合っていたし、幸せだった」
 僕の喉はからからに渇いていた。僕はコーヒーではなく、氷の入った水を飲んだ。冷たい水は、僕のからだの中のどこを通っているかをしっかりと僕に知らせながら、胃まで落ちていった。

 「そして君たちは、健康なからだを持って結婚しようとしている。お互いを愛し合って、まだまだ長い二人だけの生活を送ることができる。そんな細かい違いは、少しの我慢でなんとかなると思う」僕は残りのホットサンドの行方を気にしながら、それでも彼女の目から視線を逸らさずに言った。

 「お気の毒に」カタセさんはほとんど聞き取れないほどの声で言った。
 「でも奥さんもきっと、幸せだったと思う。素敵な夫婦ね」そう言って彼女は、にっこり笑ってムーミンのマグカップを持ち上げた。

 「でもね」カタセさんは少し表情を曇らせた。
 「こんな言い方をして気を悪くしないでほしいのだけれど、二人で乗り越えるべき障壁が高いほど、愛情というのは美しく見えると思うの。例えば奥さんが病気で、あと何年も生きられないような場合に。当たり前のように健康な二人のあいだには、そういう限られた条件がないがゆえの、どうしようもない隔たりがあるの。二人は一緒に壁を越えようとしているんじゃなくて、壁のあちら側とこちら側にいるの」
 「なるほど」と僕は言った。

 「僕は君に謝らなくちゃならない」しばらく黙ったあとで、僕はホットサンドを脇によけながら言った。

 「あなたが? あたしが謝るんじゃなくて?」カタセさんは本当に驚いたようだった。

 「僕は君に嘘をついた」僕は正直に言った。平和な日曜日の朝に、見ず知らずの人に嘘をつくのも、嘘を告白するのも、あまり気分のいいものとは言えなかった。

 「嘘?」彼女はまだうまく僕の言葉が飲み込めないようだった。

 「僕には妻なんていない。生まれてこの方、一度も」

 「どういうこと?」幸い、彼女は静かな喫茶店で怒り出すことはなかった。

 「僕はこれまで三十八年の人生を通して、ただの一人も本当の意味で愛したことがないんだ。付き合った女性は何人かいる。でもいつも、あなたはわたしを愛していない、という言葉を残して彼女たちは去っていく」僕はカタセさんに、同時に僕自身に向かって話していた。

 「そして実際に、それはそうだったのかもしれない。僕は、彼女たちと一緒に過ごす時間が好きだった。居心地も悪くなかった。でも、彼女たちのいる人生といない人生を比較してみても、そこに大きな差はなかった。それはたぶん、僕が本当の意味で彼女たちを愛せなかった証拠だと思う」

 「きっと、まだ出会っていないだけなんじゃないの? その、運命の人に」カタセさんは今では遠慮がちに言った。

 「いや、たぶん違う。僕はもともとがそういう人間なんだよ。誰のことも、本当の意味では愛せない。そしてそれを特に悲しいとか、寂しいとか、そんなふうには思わない。でも、君がもしその彼のことを、これからの人生で失いたくない存在だと思っているんだとしたら、そこにはきっと努力する価値があると思う。人を本当に愛するということは、たぶん素敵なことなんだと思う」僕はなぜか、目の前の女性に幸せになってもらいたいと思っていた。
 いや、僕は基本的にすべての人が幸せになればいい、と思っている。

 「ありがとう。そんな話をあたしにしてくれて」カタセさんは淡いブルーのブラウスによく似合う、爽やかな笑顔を見せた。

 「ごめんなさい、せっかくのお休みに。せめてここはあたしに持たせてください」カタセさんは机の伝票に手を伸ばしかけた。

 「いや、僕が君の分も持つ」僕は伝票に目だけを向けて言った。
 「その五百円で、君は彼にケーキの一つでも買って帰ってやればいい。きっと今の君たちには、そういう小さな幸せが大事なんだと思う。大きな幸せに怖気づいているようなときには」

 「彼、甘いもの苦手なの。あたしは大好きなんだけど」カタセさんは困ったように笑った。

 「じゃあ図書カードでもいい」と僕は鞄の中から『夜はやさし』を取り出しながら言った。
 「本を読んでも? 日曜日の朝はいつも、ここで本を読んでいるんだ」

 「もちろん」カタセさんは立ち上がった。「どうもありがとう」

 僕は本を開いた。
 何秒かあとで、後ろから風鈴の音が聞こえた。

【夜はやさし/スコット・フィッツジェラルド】

読書感想文はこちら
最も誠実であり、最も悲しい最高傑作『夜はやさし』F・スコット・フィッツジェラルド

【カリタ 陶器製コーヒードリッパー】

【カリタ クラシックミル】
これは持っていますが、がりがりと豆を挽く時の音がたまりません。

【ムーミン ペアマグ 木製コースター付】
わたし、ムーミンに目がないんです。

【コフェイス(Coface) 北欧 カップ ハンドメイド 天然木製 コーヒーカップ ティーカップ マグカップ 取っ手付き 100 ml】
妹がフィンランドの友人からもらって帰ってきたものがあります。すごくいいものだそうです。これを腰につけて、木こりは森に行き、森でコーヒーを飲むんだとか。

【美しいボレスワヴィエツの街 コーヒーカップ&ソーサー 食器セット ポタリー風 ポタリーフィールド 北欧】
この柄も素敵ですね。『風鈴』入って右手の壁に飾ってあります。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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恋愛相談とコーヒー、それから風鈴が鳴る”へ2件のコメント

  1. 安福健也 より:

    物語の「僕」の、なんとかカタセさんに気の迷いから抜け出してほしい気持ちがとてもよくわかります。凄いです。

    1. mihirohizuki より:

      安福さん
      コメントありがとうございます。
      「僕」は最初は嘘をつくわけですが、結局カタセさんに伝えたいことは同じなんですね。思いやりはあるのに、恋愛はできない。そんな人もいるのかも。

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