溺れた街

今日も帰りが遅くなった。
マンションの地下へのエレベーターを降り、自転車を停める。
いつからしていたのだろうか、そこでは大規模な工事が行われていた。
前と何が変わったのかはよくわからない。
ただ、たくさんの人がいて、時間もなく慌ただしく活動していた。

突然ライトが僕を照らした。
「おおい、兄ちゃん。そこ入っちゃダメだがや」
と、ライトは言った。
いや、ヘッドライトを付けた中年の大工だった。

「まだ間に合いますかぁー?」
何が間に合うのか、自分でもよくわからないまま僕は叫んだ。
ほとんど本能的に身の危険を感じて。
「おう!早く来るっちゃ!もう水が入るっぺよ」
一体彼が何弁を話しているのか、日本人であることは間違いなさそうだ。
僕は急いで地上への坂道を駆け上がった。
途端、轟々という大きな音が聞こえてきた。
遠くで、そして恐らく近くで。そういえば僕はこの地下がどれくらいの広さだったかを覚えていない。
いや、知らなかった

「あ、戻らなきゃ」と僕は思った。どうしてだかわからない。
自転車の鍵は閉めた。弁当箱も引き上げた。
何を忘れてきたのか。
何を取り戻しに行かなきゃいけないのか。
忘れちゃいけないはずなのに。
僕は戻りかけて足を止めた。
この一瞬のうちに、もう水は地下を埋め尽くしていた。嗚呼。もう遅い。
あの街は溺れてしまった。

あの街?
そう、地下には街があった。
なぜか、僕はいつの間にか水着になっていた。こういうありえないこと事が起こるのが、夢のいいところだ。
僕は飛び込んだ。泳ぎに自信はなかったけれど、泳いだ。
ずんずんずんずん。
水の中には、みんないた。
小学校の同級生も、中学校の同級生も、大学も、工事のオジサンも。
水着の子もいたし、コスプレをしている子もいた。
泳いでいる子もいたし、沿道で応援している子もいた。
僕はとくべつ早く泳いだ。
泳ぐと、だんだんと地上に向かう坂道が見えた。
そうだ、こんな風に地上に戻らなくちゃならなかったんだ。
駆け上がるなんかじゃなく。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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