営業スマイル[小さなお話62]

「料理が嫌いなわけじゃないのよ」彼女は言う。

「掃除機をかけるのも、洗濯を干すのも、買い物に行くのも。そりゃあ、面倒なときだってあるわよ。当然よね。いつだってお天道さまに今日の命を感謝して生きていられるほど、人間できちゃいないもの」

彼女は何かを伝えたいとき、本当に大切なことを伝えたいとき、僕の目を見ない。うんと遠回りをする。

「仕事だって嫌じゃないわ。ゴミの日をしっかり覚えていることも、バジリコに水を遣るのも。ただ、」

僕は静かに待つ。そうすることが正しいかどうかも知らず、そうするしかないからという理由で。

「自分の状態が一定ではないのに、それにも関わらずやってくる一定のあれこれを、こなすだけじゃなくて、営業スマイルで喜んで取り組まなきゃならないってことに疲れちゃうだけ。それだけよ」

僕はにっこりしてうなずく。彼女の言葉はそれで終わった。

僕は今日も、彼女の最終結論を聞き損ねたのだ。

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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