実のならない蜜柑の木[小さなお話63]

「実のならない蜜柑の木ってあるのかしら」咲樹がそう言うと、、カーテンのレースが風に揺れた。

「あるかもしれない。あるいは、そんな年もあるかもしれない」私は応える。

「それじゃ、蜜柑の木は何のためにせっせと葉っぱや花をつけて、寒い冬を耐えるのかしら。無駄骨になるってのに」

「無駄骨になるなんて、その時はわからなかったのかもしらないよ。それに、実をつけることだけがすべてではないかもしれない」

私のコンピュータの画面では、ビジネスチャットツールの通知の数だけが動いてゆく。その隣では、プログラムを動かすためのコードが、もう一時間も死んだままなのだ。

「でもそれって生命の本能に反するじゃない。ママだって、どこかの誰かの力を借りて、あたしという実を結んだわけでしょう。実のならない蜜柑の木なんて、あってもなくても同じだわ。ううん、そんなのないほうが、省スペースになってかえっていいのかもね」

地球が生き物でいっぱいになって爆発してしまわないのは、たぶんそういう蜜柑の木のおかげなんだよ。私はそういった類のことを、十二歳の娘にどう伝えるべきか思案する。その間も通知数は増え続ける。仕事というのは楽だ、本当に。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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