子どもを産まないことにした理由をうまく説明できない[小さなお話66]

私、子どもは産まないことに決めたわ。

妻が僕に明るく宣言したその日のことを、僕と僕の目はとてもよく憶えている。
十二月のはじめにしてはとてもあたたかいよく晴れ渡った日の昼下がりで、妻は文庫本を三分の二まで読み終え、僕は明日の会議で報告する予定の資料を作りかけていた。

妻は僕の倍ほどワインを飲み、二人とも同じ程度に少しずつ酔っていた。

「たくさん話し合ったでしょう、私たち。ほとんど疲れちゃうくらいに」

九月に三十二歳になった妻は、化粧をしていないせいもあるかもしれないけれど、ひどく幼く見える。

「そうだね」僕はキーボードを叩くのをやめ、妻の髪に手を伸ばす。
そう、僕らは本当に、うんとそのことについて話し合ったのだ。すべての夫婦の上位0.1パーセントに入るくらいに、真剣に。

「経済的なことも、私の両親とあなたの両親の望みのことも、子どもがいる人がみんなあまりにも忙しくなってしまうことも、私のキャパシティのことも」
今日の妻は、目を伏せない。僕の目をじっとのぞきこんでいる。

「僕らの息子なり娘なりが直面する世界のくだらなさと残酷さ、それに美しさや優しさについても、動物の本能と人類の滅亡についても、そもそも命が生まれることに自由意志を持ち込むことの適当性についても」
僕はそうつけ加える。

妻は僕の目をじっと見つめたまま、それでも半分くらいは別なところを見ているみたいに、浅く呼吸をくり返す。
それきり黙って、そのまま何かを考えているような、満足してしまったような、あるいは庭の隅で珍しい虫でも発見していそのまま目が離せなくなったような、どちらともとれる表情を向ける。

はじめて会ったとき、妻は僕に子どもはほしいかと尋ねた。僕はいらないと言った。

付き合った日の翌日、妻は同じことを訊いた。僕は君の望むままにと答えた。
子どもがいなければ君だけをとびきり大切に幸せにするし、子どもができれば君の取り分がほんの少しだけ減って、君も子どもも幸せにする。
古くさいかな。
そう言った僕に、妻は「あなたの希望をあくまで主体的に考えて」と言った。

だから僕らは前向きに、何度も何度も意見を交換しあい、主観的にも客観的にも気持ちをたしかめあった。

長いあいだ待った。部屋が少しずつ暗くなりはじめて、温度が下がってくるのがわかった。

「だめね」妻は諦めたようにため息をつく。「産まないことにした理由をうまく説明できない」

「説明はいらない」僕はうんとにっこりした。
妻が愛おしくて、ついにっこりしてしまったのだ。僕は場面に応じた表情を、うまくつくることができない。

「でも、どう説明したらいいのかしら。両親とか、友達とか、自然センターの人たちに」
妻の目が僕から離れ、先ほどまでの目の輝きと美しさに影が差す。

「誰にも何も説明しなくていいんだ。僕にはわかるから」
僕の言葉に、妻の瞳は十二月のストーブみたいになった。そろそろストーブを買わなくちゃな。

妻の瞳には季節が宿っている。
僕ははじめ、それで妻に恋をしたのだ。

「それであなたはどうする?」
妻にはまだ、僕の返答次第でいく通りもの人生があるのだ。そのことは僕を少し淋しくさせる。

「明日の朝まで時間がほしい」僕にはあくまで主体性が求められているのだ。

それから僕たちはステーキを焼いて塩をかけて食べ、お茶漬けを食べた。
妻が先に風呂に入り、夜は手をつないで眠った。
こういう暮らしが、僕らのどちらかが死ぬまで続くのだ。平和に、誰にも邪魔されずに。

なんて素敵なんだろうと僕は眠る前に考えた。
これは主体的な考えとして受け入れてもらえるだろうか。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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