給湯室のキメラ[小さなお話69]

「それで結局、美沙樹ちゃんが食べたのはトマトみたいないちごだったの、いちごみたいなトマトだったの」

俺は彼女が先刻から嬉しそうに話すその話題には露ほどの興味も持てなかったが、いちおう礼儀としてそう尋ねた。

「難しいところなんですよね。トマトの味もいちごの味もするし、見ためはトマトに近いんだけど、食感はいちご」

俺たちはたまたま給湯室に居合わせて、隣の課の人が買ってきたクッキーの土産を食べながらそんな話をしていたのだ。

「うまく交配してつくったのかもね。キメラみたいだ」
俺がそう言うと、彼女は水道管の修理工に特殊な器具の説明をされた専業主婦みたいな顔をした。

「わかんないけど、それまだ家に残ってるんですよ。食べに来てみます?」

「いや、ありがたいんだけど、トマトもいちごも苦手なんだ。うちのチームの川谷は何でも喜んで食べると思うけどな。ほら、紺のハンカチがトレードマークの」
俺がそう言うと、彼女はあからさまに嫌な顔をして出て行った。

人生はこういう類の会話に埋め尽くされていくのだ。良くも悪くも。

俺はクッキーを両手につかめるだけつかんで、給湯室をあとにした。
もちろん我らが川谷のためだ。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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