【引きこもりの北欧紀行】第一章その13 過去へのチケット

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はじめから読む 【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1
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Sweden Day3
 目覚めは唐突にやってくる。
 四時半に目を覚まし、もう眠れなくなってしまうというのは、なかなかに切ない気分だった。特にそれが異国の地でひとりきりの時に訪れると、タフな人間でも感傷的にならざるを得ない場合がある。もっとも僕は、タフさとは無縁の人間であることも書き添えておかねばなるまい。それでも時間をかけて着替えをし、化粧をし(僕は、女だ)、荷物を整理し、仕事をしていると、時間というものは割にすぐに過ぎ去ってしまう。

 七時になるまでにはすっかり身支度を整え、大きなバックパックとともに食堂に向かう。今日もたっぷりのヨーグルト、トマト、パンをいただく。途中でトイレに行きたくなってしまっては困るので、コーヒーは半分だけにしておく。
 スウェーデンを始めとする北欧では、公衆トイレは基本的に有料となる。大体は100円に満たないくらいの金額で一回の用を足すことができるのだが、この仕組みは未だに納得がいかない。

 人間には五段階の欲求があると言われる。その最も下層の欲求には、睡眠欲、食欲、性欲などが挙げられる。排泄や清潔であることへの欲求も、ここに含まれると僕は思う。この中でも、比較的長時間に渡って自制することのできるものと、そうでないものがある。
 食欲や性欲は前者にあたり、睡眠欲や排泄欲は後者に当たると僕は理解している。この「自分ではどうにもならない短期的視点における生理現象」に対して金を払うというのは、太った犬の腐った鼻息を五分間浴び続けなければこの道を通ることができない、と唐突に言われたかのような気分になる。理不尽極まりない。

 この意見を現地の友人にぶつけた時、「まぁ、タダのトイレに宿泊する人が出てきたら困るからね」と一笑に付していた。心が広い。そして、物乞いが街に溢れる移民大国に住むということは、そういうことなのだと思う。僕はちなみに、ただの一度も有料トイレの世話になったことはない。空港か家かホテルか飲食店の中の、希少な無料トイレを大いに活用している。

 この日、朝の8:14にストックホルムを出る電車を予約していた。
 昨日の思いつきというのは、電車での日帰り旅行のことだった。行き先はもちろんGoteborgである。(正式にはひとつ目のoの上にゴマが二つついていて、ヨーテボリと発音する)

そう。実を言うと、僕は三年前に九ヶ月ほどヨーテボリ大学へ交換留学に来ていた。授業は全部英語だったし、ここの人はみんな英語が流暢に話せる人ばかりだし、専攻は経営学だったから、残念ながらスウェーデン語に熟達することは叶わなかった。いや、そもそも僕は語学というものに不向きな人間であるし、スウェーデン語は中でもとびきり難易度の高い言葉だったのだ。

 今回の旅はスウェーデンのゴットランド、フィンランド、リトアニアが主な目的だったため、ヨーテボリに立ち寄ることは諦めていた。ところが、ストックホルムの空港に降り立った瞬間、僕はヨーテボリが恋しくてたまらなくなった。
 今回行っておかなければ、もう二度と行けないような気さえしたのだ。それは、これから遠い国へ旅立ってしまう恋人に、最後にもう一度だけ別れのキスをする時の気持ちに似ているかもしれない。あるいは、もうこれ以上食べられないというところへアイスクリームを最後のひとすくい押し込もうとするビュッフェへの態度かもしれない。

 とにかく、僕はチケットを取った。

【引きこもりの北欧紀行】第一章その14 ただいま。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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