【引きこもりの北欧紀行】第二章その7 見て、海に浮かぶ街よ!

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ その1

 結局二晩世話になったホテルに別れを告げ、僕たちは昨日の宿へと足を運んだ。
新しい宿がホテルから近い場所にあったのは、僕たちにとって幸運だった。僕たちのキャリーは日を追うごとに重くなっていたし、僕たちは花も恥じらうか弱き乙女なのだ。

 昨日、宿の女主人に鍵をもらっておいたのは正解だった。着いた宿には誰もおらず、僕たちはただ荷物を置いて、鍵を閉めなおしてそのまま出発した。

 「今日が曇りで本当に嬉しい!もう日を浴びたくないもの」彼女は言った。
僕も同意見だった。どうか雨が降りませんように。

 何かにつけ新しいものを見つけたがる彼女は、慎重に昨日とは違う道を選びながら街の中心へ向かった。この街一帯は古い壁で囲まれていて、文字通り「古い街」と呼ばれていた。

 「ねぇ、この街の歴史はどれくらいだと思う?」
 「さぁ、わからないな。多分何百年も昔じゃないかな」
 「そうね、少なくとも壁はそのくらい古そうね。あ、ジュースが飲みたい」
僕よりも十五も歳上の彼女はまるで、蝶からアメ玉へ次々に興味が移り変わってゆく少女のように見えることがある。

 それは唐突に現れた。例の映画で、主人公の魔女が相棒の黒猫に向かってこう叫ぶシーンがある。

 「見て、海に浮かぶ街よ!」

 今僕の目の前に広がっている光景は、まさにそのシーンに出てきた風景そのものだった。
僕は感激のあまりそこに立ち尽くし、彼女が僕の写真を撮りたがって話しかけるのにも気づかないくらいだった。
そこにはオレンジの屋根を持った家が行儀よく立ち並び、その向こうには海があった。そして僕らの真下には、誰かが落としたりんごが転がっていそうな坂道があった。きっとメガネをかけた彼が空飛ぶ自転車で駆け下りるのも、この坂道に違いない。

こんな場所が本当にあるなんて、それも僕が飛行機や船を乗り継いで来られるくらい近くにあるなんて、本当に信じがたいことだ。これだけで、もうこれだけで本当に充分だった。

 そのすぐ隣で、僕はガレット(クレープ)の店を発見した。事前にインターネットで調べた時、随分と評判の良かったところだ。
僕はできることなら彼女とそこを訪れたかったが、彼女はあまり外でものを食べたがらなかったし、僕としてもキッチンのある宿で食事を摂ることに異論はなかったので、今回は見送ることにした。

何もかもを体験してしまっては、もう次の楽しみがなくなってしまう。何かをする時やどこかに行くときは、いつもほんの少しだけやり残しておくのが、前に向かって楽しく生きるコツみたいな気がする。そういう風に思えるようになってから、僕の毎日はいくらか楽になった。

 何もかもを計画するにはあまりにも時間がありすぎたし、四六時中地図を確認するにはここはあまりにも小さい街だった。
僕と彼女は気の赴くままに歩いた。そうして人気(ひとけ)のない住宅街に入り込んだ僕らは、この街の持つ非現実感と、そこに本当に人類が住んでいるという奇妙なギャップを感じた。
何もかもが空を切り取ったような青色で、ひまわりを思わせる黄色で、そして恥じらいのある可憐なピンクだった。
花が咲き溢れている庭は、きっとよくできたなにかのお伽話の主人公が住む家なのだろう。街中を闊歩する中世の衣装を身にまとった人たちが、さらにその確信を強くさせた。
同時に、彼らがタブレット端末や一眼レフデジタルカメラやペットボトルを携えている姿は実に奇妙で、インターネット環境を確保していない僕らのほうが、精神的には中世により近い存在のようだった。

海に浮かぶ街よ

夢にまで見た「見て! 海に浮かぶ街よ!」
隣にジジがいないことが悔やまれる。
日本人は誰もいなかったから、大きな声で叫んでもよかったのだが。
曇り空だったけれど、おかげで気温はちょうどよかった。

リンゴを追いかけるトンボ

ここなんて、まさにトンボが出てきそうな坂じゃないですか。

ゴットランド中世の人々

人々はこんな風にうまくタイムスリップしていたのです。

【引きこもりの北欧紀行】第二章その8 中世の北欧市場ってどんなふう?

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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