【引きこもりの北欧紀行】第二章その9 言葉は壁にも橋にもなる

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ その1

 僕は一日のうち数時間を、この旅行記を書くことに充てている。
僕の体と脳のいびつなパワーバランスを維持するためにはおそらくこういう作業が必要だし、何よりも書いたり読んだりする時間が一番楽しいのだ。どこにいても。

ここに来てからのあれこれを、僕はこうしてPCの中に書き溜めている。こうすることで上手く頭の中のものごとを整理することができるし、ずっと後で読み返すことがあればきっと何かの役に立つかもしれない。何より書かずにはおれないのだ。僕にとって、それは一種の生理的欲求にほかならない。

 「ちょっと散歩に行くわ。あまり遅くはならないから」
 まだエネルギーのあり余っている彼女は、そう言った。
 「うん、ゆっくりしてきて。僕は何かを食べて、本を読んでいるよ」僕は彼女を送り出した。

 ここに来てからというもの、同じものばかり食べ続けている気がする。トマト、手で食べられる果物、パン、それに時たまヨーグルト。今日はそれに加えて豆の水煮もある。
日本にいる時、僕の家にはあらゆる食べ物がありすぎる。たまにはこういう食事もいい。
きっと帰国した時、食べ物がいっそう美味しく感じられるだろう。
正直言って、世界レベルで見ても日本の食べ物のクオリティは相当のものだし、中でも僕の家族は幸運なことに料理好きが多い。

一日三度食事をする必要がある人間に生まれたからには、ぜひとも美味いものを食べて人生を過ごしたいものだ。そうして、そのような幸せを幸せと感じ続けるために、時々そこから離れてみるのもまた大切なのだと思う。僕は相当に狂人的で模範的な哲学者気取りである。

 僕が枕元の電気を点けて本を読みふけっている時(まだ上巻の半分に辿り着いたところだ)、誰かがドアを叩いた。
宿の女主人だ。僕は僕が一人の時に彼女が訪れたことをわずかながら不安に感じ、同時に頭のなかで何かのスイッチが入るのを聞いた。

 「ヨーヨー!」
 僕はスウェーデン流のYesを連発しながらドアを開けた。幸いにして彼女の用件はわかっていた。
僕はまだ彼女に三日分の宿泊費を支払っておらず、彼女はそのことで僕を訪問したに違いない。

「ヤートーラーインテスベンスカ!(僕はスウェーデン語が話せないんです)」僕はつぎはぎのスウェーデン語をたどたどしく話し、その空白を埋めるかのようにとにかく大声で、とびきりのスマイルで話した。

 「デュートーラーブラスベンスカ!(スウェーデン語、うまいじゃない)」彼女はそれに応えるように、この上ない笑顔で返してくれた。

 ……束の間の沈黙。
 「ヤーコンマルフランヤーパン!(僕は日本から来たんです)」僕はとっさに前に絵本で読んだスウェーデン語を口走った。
 「ヤーパン!◯×※??」
 「???」
 「tourism?」
 「ヨー!」
 彼女の、少しだけ英語を話してくれるという歩み寄りのおかげで、僕は日本から来たことと、旅行で来たことをなんとか伝え終わった。もうカードは全て出し尽くした。僕の知るスウェーデン語は、もうない。

 「タクソミッケ!(本当にありがとう)」
 僕は会話を終わらせるべく、便利のいい礼の言葉を言った。

 「タックタック!(こちらこそ)」彼女は笑顔で部屋を後にし、僕は深い安堵感に包まれた。
 英語だけで話す時には得られない、深い感動があった。きっと初めて英語で意思を伝えられた時も、こんな感動があったのだろう。すっかり忘れてしまっていた感情が、僕に蘇った。

ゴッドランドの宿

僕たちのスイートな部屋

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その10 戦う男たち

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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