【引きこもりの北欧紀行】第二章その13 時間が僕たちを迎える

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ

Sweden Day 10
 六時前。ここでは太陽より早く起きることは不可能に近い。僕は僕のペースを取り戻し始めているかもしれなかった。朝の僕だけの時間があたりに充ちている。
それはクラスで僕だけが九の段を言える束の間の独占的優越感に似ていたし、戸棚の一番上に隠してあるチョコレートチャンククッキーを母親に隠れて食べる時の気持ちから、背徳感を差し引いたような満足にも似ていた。その他のどのような種類の例えも、この朝の時間の様子をぴたりと言い当てることはできないように思う。

新鮮なトマトをかじりながら、僕は書きかけの物語を開いた。これは僕の処女作であり、書き始めから随分時間が経過している作品でもある。もう最初の方に何を書いたかさっぱり覚えていない。それでも物語は確実に終わりへ向けて事態を収束させようとしていた。僕としてはただそれを眺めていればよい段階に突入した。彼女が起きだしてくるまで、僕の傍観は続いた。僕の意思は時たま物語に干渉し、あとは静かに成り行きを見守っていた。

 僕たちは食料を買い込みすぎた。
 再びあのスーパーマーケットに戻りたくないがために、昨日の僕たちは用心に用心を重ねてあらゆる種類の食材を買い込んだ。まるで二日後の朝に旅立つことを忘れたかのように。朝食の席で、僕たちは少しだけ後悔した。

腹が満たされると、今度は時間が僕たちを迎えた。旅先の朝というのは、時間が余りがちだ。
パンをかじりながら仕事に向かう必要はないし、休息を取るために昼まで眠る必要もない。朝食を終え身支度を整えた後でも、まだどの店もまだ開いていない。それぞれうまく時間を潰し、九時を三十分回ったところで僕たちは出発した。

 外は風が吹きすさび、とても真夏とは思えない気候だった。暑がりの彼女は今日の気候にかなり満足している様子で、僕はそれを励みに歩き出した。かなり歩き慣れた道を行き、見慣れた風景の中にどこか新しい何かを見つけ出そうとした。
しかし、四日間の滞在にはこの街はあまりに小さすぎた。僕たちはほとんど地図なしで街を歩くことができ、そのことにそれなりに満足した。

昨日とは反対向きに海岸を歩き、ハンモックや穴の開いた壁で遊びながら中世のマーケットへ向かった。僕はここで余暇の過ごし方を学んでいるように思う。日本で忙しく働いていると、それ以外のことを考えている隙がない。
突然休みを言い渡されても、それをうまくやり過ごすことができないのだ。これは、多くの日本人に共通する問題であるのではなかろうか。あるいはそれは、働き蟻を求めるある特定の組織においては有効に働くのかもしれない。

 さて、ここでの身のこなし方も慣れたものだ。僕は日本の友人たちに土産物を選んだ。旅行の中で、誰かに土産物を選ぶ時間が間違いなく一番楽しい。僕は僕自身に土産物を買いたいとは微塵も思わないのだ。僕はここでこの時間と場所を誰よりも体と心で感じているのだから。

黄色い家

分かれ道
あなたなら、どっちに行く?

北欧の家

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その14 ゴットランド島最後の日

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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