【引きこもりの北欧紀行】第二章その14 ゴットランド島最後の日

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ

 広場では大道芸人が芸を繰り広げていた。
顔立ちの整った痩せ気味の若い男性だった。彼は声を張り上げて聴衆を楽しませることに渾身の力を注いでいるように見えた。僕は彼が倒れてしまわないか心配になった。そのくらい全エネルギーを注いで芸を見せる彼は、まさにプロ中のプロだった。
僕が日本のこぢんまりとした祭りで見かけた芸人は、ここまで命を懸けていなかったように思う。もしくは彼の話すスウェーデン語が僕にそう思わせたのかもしれない。彼はひと通りの芸を終え、聴衆を巻き込んだ劇のようなものを始めた。耳からの情報は全く当てにならなかったから、僕は目だけで状況を推測せざるを得なかった。筋書きはこうだ。

 あるところに姫君と海賊と変態がいた。変態は姫君をさらおうとし、海賊も姫君をさらおうとしたが、何かしらの理由で海賊と姫君は恋に落ちた。そして、最後には海賊が変態を殺し、姫君が海賊を殺した。

 そう、さっぱりわけがわからない。
 僕がその劇で好ましく思ったのは、参加した三人の男性(姫君も男性が務めた)が積極的に滑稽に振る舞おうとサービスしたことと、大道芸人が倒れる二人のためにきちんと事前にタオルを敷いていたことだ。話の筋書きがわからないと、どうしても細かいところに目が行ってしまう。

 大いに満足した僕たちは持っている残り少ないスウェーデンクローナのうちのいくらかを彼に渡した。本当はもっと渡すくらいの価値があるショウだったが、旅の最後の日に僕らに残された現金は寂しいものだった。現地の人びとが彼にたくさんの対価を支払ったことを願う。

帰り道の途中で僕たちはいくつかの店に寄り、土産物を選んだ。ゴットランド島は、はちみつの生産で有名だったが、少なくとも僕は日本ではちみつが必要な場面にあまり遭遇したことがない。それでもやはり、少しばかりは購入しておくことにした。日本にも色々な人がいるはずだから。
彼女は、彼女のキッチンに似合う洒落たランプを購入した。それは色とりどりのテニスボールがズラリと並んだようなランプで、本当に彼女のキッチンによく似合うランプだと僕は思った。僕も欲しいくらいだ。すっかりくたびれて宿に帰り着くと、時計は1時を知らせたばかりだった。

 「まだ一時なんて、本当に信じられないよ。ほとんど悲しいくらいだ」と僕は言った。
 「ここではきっと、時間がゆっくり流れるのね」と彼女はしみじみ言った。

 僕たちは昼食を摂った。この宿には僕たちしかいなかったし、キッチンもバスルームも全部僕たちのものだった。

それはまるで、彼女との新婚生活みたいだった。断っておくが、彼女には定まった夫がいるし、僕は女だ。僕たちは豊富な食料で質素だけれど贅沢な食事をした。ここでこんなにも心ゆくまで西瓜が食べられることが、僕の心をさらに弾ませた。僕は日本を発つ時、もうこの夏の食べ納めだと思って西瓜を堪能してきたのだが、これは嬉しい誤算だ。
再び腹が満たされると、今度は眠気が二人を襲った。僕は肉体的に疲れていたし、彼女は頭が疲れたと言った。僕たちは本を読みながら短い昼寝を取ることに決めた。

 本の世界と現実世界と夢の世界が一つに交じり合い、深い混沌の世界へと誘われようとしたまさにその瞬間、窓の外からすさまじい音がした。それはまるで、小さな島に上陸した巨人が気まぐれであたりを踏み鳴らしている風(ふう)でもあったし、政府が突然、都市開発のためにこの平和なアイランドにブルドーザーを仕向けたような不吉さでもあった。
とにかく僕の眠りは妨げられ、それは少なく見積もっても一時間は続いた。どうやらここの女主人が庭の芝刈りをしていると考えるのが妥当なようだった。

 僕は再び眠ろうと努めた。僕は昼寝をすると決めたら、実際にそうしないと気が済まない人間なのだ。
ところが今度は、例のハエが布団の周りにまとわりつき、僕の耳のすぐそばで嫌味な羽音を立て続けた。僕は諦めてむくりと起き上がった。誰も彼もが、僕の旅行の束の間の平和な午後の眠りを妨げようとしている。これが世界の成り立ち方なのだとしたら、「人生は忍耐と努力だ」と口を酸っぱくして言っていた祖父の言葉が今やっと理解できる気がする。

 僕はシャワーを浴び、本の続きを読み、夕食の準備をした。
いつも同じようなものを食べ続けているせいで、食事の記憶がかなり曖昧になっている。少なくとも僕は、パンとトマトと西瓜を食べた。あと、豆のスープ。うん、これで全てなはずだ。

僕と友人は、残りの時間を静かに本を読んで過ごした。同じ部屋で、同じ空気を吸いながら、それぞれのベットの上で違う時間を過ごした。外では陽気なスウェーデン人たちが今なおやかましく騒ぎ立てており、それはやはり彼らの幸せの象徴なのだろう、と僕たちは目を合わせて困ったように笑い合い、そしてまた本の中へ戻っていった。

 そんなゴットランド島最後の一日だった。

夕食

旅行に行くと、決まって少食になります。
家にいると結構食べられるのに。

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【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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