【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ

Sweden to Finland
 立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。翌朝目覚めた僕たちは、まず朝食をたっぷり摂った。保存の効かないものは胃の中に収め、その他のものは鞄に収めた。
物語の中のような、上品な青を基調としたアンティークキッチンとも今日でお別れだ。
こんなキッチン、家にあったらなぁ。ここでの僕と友人の共通の口癖だった。そして、きっと彼女は新しい家でこのようなキッチンを手に入れるのだろう。彼女はほしいものを手に入れる。

僕は日本で忙しく働き、少しずつ色々なことを妥協する力を手に入れる。僕がそういうスタイルを受け入れている限り、物事はそのように運んでいくのだろう。
そう、全ては自らの選択によってなされるのだ。不平不満の入り込む余地はない。

 ゴミを捨て、食器を洗い、ベッドを整え、忘れ物をチェックした後、またしても時間が余った。互いが本の虫だと、こういう時に退屈しないでいい。宿を出る時、スウェーデン語だけを話す女主人とその夫らしき人物が見送ってくれた。
こんな親切で良心的な宿が陽の目を見ないのだ。そしてきっと彼らも、自分たちの住む宿が日がな一日観光客でいっぱいになることは望んでいないのかもしれない。

 今日はフィンランドへ帰る。
スウェーデンで留学生活を送っていた僕だが、フィンランドでのホームステイ経験から、こちらのほうがどちらかと言うと「家」の感覚が強い。国民性から見てもフィンランドのほうが性に合う気がするのだ。
スウェーデンの人は陽気でよく話し、口を大きく開けて笑う。フィンランドは、どちらかと言うと内向的で本を好み、口数があまり多くなく、微笑みが多い。

あくまでも一般的な話だ。この世から一般論がなくなれば、なにもかもが具体的で即物的でその場限りの体験になる。そういうのも悪くないのだが、ある種の傾向性を語る時に、一般性や平均性というものは極めて有効に作用する。
スウェーデンの性質とフィンランドの性質を併せ持った人も存在する。もとは一つの国だったのだ。「スウェーデン」という一つの国だった。そのせいか、フィンランドの人はあまりスウェーデンを好きではないように見える。いや、やはり性向というものはカテゴライズされるべきではなく、あくまでも個人的なことに留めておくべきかもしれない。

 どうしてこのようなことばかり考えるのだろう?

 それは今日が移動日で、体を動かさずに頭で考える時間ばかりが余っているからだ。
ゴットランド島からフェリーで三時間、そこからストックホルム市内までバスで一時間弱、さらに空港までがバスで一時間弱、空港での待ち時間が四時間、そこまで行くとあとはもうフィンランドまで飛行機で四十分だ。

 空港でやっとコーヒーにありつけた彼女の様子は、迷子の子どもが三時間の時を経てやっと母親に会えた時のような、無垢で純粋な喜びに満ちていた。僕は彼女と合流してから、一日に三杯はコーヒーを飲んでいる。こちらのコーヒーはとにかくうまいのだ。

しかし驚いたことに、北欧にはアイスコーヒーという文化がない。日本に何度も訪れている彼女は、アイスコーヒーをしきりに恋しがっていたが、結局淹れたての熱いコーヒーを毎日飲んでいる。文化というものは実に微妙なバランスで成り立っている。世間は狭く、世界は広い。近い将来、北欧のコーヒー関係者の誰かがアイスコーヒーの存在に気付くことを祈っている。

 フィンランドのヘルシンキ空港まで着くと、彼女の夫が迎えに来てくれていた。彼に会うのは久しぶりだったので、僕たちは再会を讃え合った。夫の前では、彼女はいつにも増して少女のようになる。
これまた一般論で恐縮だが、子どもを持たない女性というのは往々にしてその少女性を永遠に輝く宝石のごとくその身にまとい続けることができるのではなかろうか。

 時速110キロで家に帰る途中、僕たちは彼に旅の様子を話して聞かせた。しまいにはスウェーデン人がいかにtoo happyだったかという話と、彼女が早く日本を再訪したいという話に集中していた。次に彼女が日本に来た時、彼女はどんな新しい発見をするのだろう。きっとまたしても僕が思いもよらないような視点で日本を描写し、僕を驚かせるのだろう。しかし、運転手は運転中に後部座席を見るべきではないと、僕個人的な意見ではそう思う。全くスリリングなドライブだった。

 家に帰り着くと、彼女はまず僕にシャワーを浴びさせてくれた。彼らは家を売ってどこか静かな田舎に移り住もうとしており(ここでも充分静かな郊外だと僕は思うのだが)、そのために家を改築中とのことで、キッチンから居間からサウナまで何もかもが新しくなっていた。前に僕が来た時も充分魅力的な家だったが、今では事情さえ許せば僕が一番に名乗りを上げて買い取りたいくらいの素晴らしい家だった。しかも、その改築をなんと彼女の夫が一人で進めているらしい。ここでは何もかもが僕の常識を逸している。

シャワーを浴びてしまうとそのまま眠るのかと思ったが、なんと食事が始まった。真夜中の霊時だ。さすがにあまり重いものは入らなかったが、僕はその異文化的体験に身をうずめながら、暖かい布団に潜り込んだ。僕の人生最後になるかもしれない、ビッグサマーバケーションはまだまだ続く。

北欧の灯り
彼女の買った灯りは、こんなふうにすてきに飾り付けられました

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投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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