【引きこもりの北欧紀行】第三章その2 スポイルされた弟

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 七時半。布団に潜り込んでおおよそ六時間半といったところだろうか。
 実のところを言うと、僕はもう少し眠りたかったのだ。しかし、長年スポイルされた末っ子長男の弟の尻を叩くために、僕と彼女は早起きをした。

僕の弟は、彼の初めての海外旅行と銘打って、一週間ばかり後から僕たちと合流する予定になっている。僕はその頃リトアニアにいる友だちのところへ滞在している予定なので、必然的に彼女に弟を預けることになっているのだが、当の弟はというと、初めての海外旅行だからとあらゆるところに行きたがっていた。
にも関わらず、そのどれもが彼の頭のなかの妄想にとどまっていた。そう、彼はこの期に及んで行き帰りの航空券以外(これも僕が予約した)の一切の予約を怠っていたのだ。我が弟ながら、ここまで計画性と危機管理能力の欠けた人間を見るのは久しぶりだった。それでも僕は彼に海外の楽しさとその裏に潜む危険性をめいっぱい味わって欲しかったし、彼の初めての海外旅行体験を恐怖と絶望で埋めることは避けたかったので、しぶしぶ手伝ってやることに決めた。

 こちらの朝八時は日本の午後二時。土曜日のゴールデンタイムだ。ほとんど北半球の裏側からでもいつでもフリーでコールできるのだから、時代の変遷と技術の向上を受け入れることも悪くないなと思う。そこからが長かった。

 彼はほとんど何の計画性もないままあれこれ要望を語りだし、僕と彼女はすっかりため息をついてしまった。僕は多少なりとも彼に腹を立てていたし、そんな僕に向かって彼女は「これは彼にとってはじめてのことよ。優しくしてあげて。でも、ほんと遅すぎよね」と笑っていた。

 話をはじめて二時間。やっと彼の旅行の行き先と日程がぼんやりと決まった。なんと彼女が。「彼を一人で行かせるのは心配だし、私もパリとロンドンは行ってみたいから」と同行してくれることになったのだ。なんと親切なことか。僕は、弟が彼女にフレンチのひとつでもご馳走しないなら、もう彼とは口を利くまいとすら思った。彼女はどこまでも優しく、それでいてきちんと自分の意志で物事を決められる人なのだ。

 僕の背中は長時間の座談で痛み始めていた。親切な彼女とその夫の気遣いで、僕の前には朝食用の皿がいくつも並んでいた。
僕はそれに手を付けつつ、彼に彼自身で予約をさせようと努めた。日本では大きな台風が巻き起こっていた。
僕の住む地域を大きな台風が直撃することは珍しい。確実に、何かが狂い始めている。家族に心配はなさそうだったが、それでも日本列島のあちこちで被害が出ているという情報は僕をいくぶん暗い気持ちにさせた。それに、僕がゴットランド島に行っている間に会社ではいくつかの問題が起こっており、早急にクレーム処理と要確認事項を各方面に連絡せねばならなかった。楽しいこととそうでないことは交互にやってくる。

 僕は彼との通話を一旦切り、コーヒーブレイクを取りながら緊急性の高い仕事をさっさと片付けてしまった。

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【引きこもりの北欧紀行】第三章その3 揺れる眠り

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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