【引きこもりの北欧紀行】第三章その3 揺れる眠り
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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ
【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷
そうして三十分ほどして再び弟の方の仕事に取り掛かった。
彼は、パソコンが上手く作動しない、サイトに繋がらない、この内容がよくわからない、などといちいち些細な問題を持ち込んでくるものだから僕はほとんど辟易していた。それでも彼の後学のために、できる限り手を出さないつもりでいた。そうしてさらに一時間か二時間が経った。
ついに僕の線路上のポイントが切り替わった。もはや彼の成長だかなんだかいうことは、どうだってよくなった。今最優先させるべき重要な事柄を二つ明確にさせた。
・弟の旅程を決め、航空券と電車とホテルの最低限の予約を済ませてしまうこと
・一刻も早く背中の痛みから解放されること
誰かの背中の痛みと引き換えに成し遂げうる成長など、あってたまるものか。そうして僕は通話を画面共有モードに切り替え、僕がそれらを予約する様子を彼に見せることで妥協した。かなりいい価格ですべてを首尾よく済ませられたのではないかと思う。そう思うことで、僕は自らを慰めた。末っ子というものは、往々にして人生経験的享受を受けやすい立場にいる。僕は自分が初めて海外に行った時のことを思い出し、目を細めた。
やっとのことですべての予約を済ませてしまうと、あとは残りの家族と会話を愉しむことができた。相変わらずテンションの高い母親と、僕の人生の相棒(想いは一方通行だ)である妹の顔は、僕をほんの少しだけホームシックにさせた。
ちなみに弟を見た時は、ほとんど何も感じなかった。
公務員である父親は、市民を災害から守るべく休日出勤していた。
自分が社会人になって仕事を始めてから、僕は僕をここまで養ってくれた父の偉大さにほんとうの意味で気付き始めていた。世間の女子高生にありがちな誤った態度である「パパきもーい」などと言ったことはもちろん一度もないが、父親への感情がこれほどまでに感謝と尊敬に満ちた瞬間はあまりなかったかもしれない。あるいは僕は、人生の第二フェーズに取り掛かっているのだろう。
そのようにして僕の五時間半にも及ぶ日本への精神的トラベルは終了した。
僕が終わるのを待ってくれていたここでの家族たちと昼食を囲んだ。彼女は僕を労おうと、僕の好物ばかりを机に並べてくれていた。かたじけない。僕は急速にV字回復を果たした。
「あなたが仕事に掛かる前に、見せたいものがあるの」
そう言って彼女は僕を裏庭に連れて行った。前に来た時は、何もかも暗く雪に覆われた冬だったために気づかなかったが、彼らはとてつもなく広い庭を持っていた。こぢんまりとした日本の家族なら、一階建の家にしたとしても七、八軒は優に建ってしまいそうな大きさだった。
フィンランドには、500万人しか人がいない。日本とほとんど変わらないくらいの土地を有しているにもかかわらず、だ。それを吉と取るか凶と取るかは、それぞれの価値観に委ねられるのだろう。
裏庭には一軒の小さな建物があった。彼女は得意げに僕に言った。「入って」
そこにはゴットランド島で彼女が教えてくれた通り、作りのしっかりしたいかにも心地よさそうなハンモックが二つと、ベッドが一つ置いてあった。
「これもあの人が作ったの。彼はなんでもできるの」と彼女は言う。まったく、頭が上がらない。
「ごゆっくりー。私はコーヒー飲んでくるからね」
と、まるで彼女は鼻唄でも歌うようにそう言って去っていった。
僕は羊水のような安心感の中でゆらゆら揺られながら、庭を眺めた。きっと、ほんとうにおとぎ話の中に入りこんだのだ。
右手には林が広がり、庭にはブルーベリーの木が2本生えていた。日本で買ったらしい灯籠のようなものがやけにこの庭にフィットしていた。
僕は眠った。
【引きこもりの北欧紀行】第三章その4 食事が三度なんて誰が決めた?
書いた人
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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