【引きこもりの北欧紀行】第三章その5 凍えるおとぎ話の世界

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【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ
【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷

Finland Day 2
 外は暗くなっていた。真夜中の零時過ぎだ。
 日没の頃はすでに眠りにつきかけているため、闇に包まれたフィンランドを見るのはまれなことなのだ。もちろん、夏の短い間だけのことだが。

しかし、テントの外はまるで冬の到来を告げるかのようだった。僕は用を足すために外に出たのだが、ほとんど尿意を諦めたくなったほどだ。昼間は比較的「夏」らしい気候なのだが、夜はこれほどまでに冷えるとは。
砂漠ほどの気温差ではないだろうが、それでも僕の身体には堪えた。

それでも、庭の中にぽつりぽつりと灯る明かりと、それに照らしだされた花壇や温室、木のアーチは僕をおとぎ話の世界に連れだそうとしているみたいに思えた。ゴットランド島も相当なものだったが、ここでは日常におとぎ話が入り込んでいるのだ。
そう思うと段々自分が現実を生きているのかどうか、自信がなくなってきた。
どうだっていいや、現実なんてものは所詮観念的で、それが現実だと僕らの頭が思い込んでいるだけにすぎないのだ。

 寝ぼけた頭でそんなことを思いながら、僕は家の中へ入った。家の中は外よりも暖かくて、ここで眠り込んでしまえたらどんなにいいだろうと思った。しかし、思い直してやめた。寝る前に彼女が「一人にしないでね」と言っていたのをかろうじて思い出したのだ。彼女は僕の大切な人だから、悲しませる訳にはいかない。

 そうして僕は朝の五時に起床するまで大きなバスローブとブランケットを重ねて生き延びた。

 彼女はよく眠った。彼女が起きだしてきたのは、九時半を回っていた。それまで僕は、この旅行記を書いたり仕事を片付けてしまっていたりした。

 「消えちゃったからびっくりした」彼女は目をこすりながら言った。
 「ごめんね、早く目が覚めちゃったんだ。テントの中、寒くなかった?」僕は心配して言った。
 「あら、少し寒かったけれど、ほとんどパーフェクトな温度だったわ。隣人がうるさかったけれど」

 そう、僕は推測するべきではなかったのだった。ここでの僕と彼女の体感気温差は、おおよそ15度ぐらいだろうか。いや、これもまた推測に過ぎないのだ。

 僕らは遅めの朝食を摂り、近くの森へ出掛けることにした。徒歩圏内に森があるなんて革命的な立地だ。
その森で、野生のブルーベリーが採れるのだと言う。

僕は出発して五分で自分の位置を見失った。僕らは道のない道を進み続けた。彼女がスマートフォン無しでこの森を突き進む勇気を僕は讃えたい。
少し前まで、人びとはスマートフォンを携えずに暮らしていたのだ。

僕は、小学生の時に母親が五分おきに車を停めて大きな地図を広げていたことを思い出す。
僕たちは往々にして過ぎ去った不便さを簡単に忘れ去る。そして器用に新たな不便さを見つけ出すのだ。

有機栽培のトマト
朝食には、彼女の家の小さなハウスで取れた有機栽培のトマトをいただいた。
甘くて最高でした。

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【引きこもりの北欧紀行】第三章その6 北欧のベリーピッキング

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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