【引きこもりの北欧紀行】第三章その9 愛について語ることと生のグリーンピース

あらすじを読む 【引きこもりの北欧紀行】 〜あらすじ〜
はじめから読む 【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1
旅のしおりを見る
【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ
【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷

Finland Day 4
 今朝は八時半に目が覚めた。僕は再び早起きの習慣を失いつつある。なにしろここでは別段、早く起きて自分の時間を必死で確保する必要なんてないからだ。こういう生活は、本当に僕を落ち着かなくさせる。

きっと僕は日本に帰ってしばらくの間、使いものにならないくらい怠惰な人間だと思われることになるに違いない。そんな文化で育ってきた人間には、ここはあまりにハッピーに過ぎる。時間を持て余すのだ。

 帰りたくないな、と思った。僕が海外に出て一度もホームシックかかっていないのは、ほとんど奇跡に近い。
それほど僕は海外に出るとわりにすぐに日本を恋しく思い、また自然とあの忙しい日々に戻っていけるのだった。
今回は何もかもが僕にフィットしすぎている。家族さえいなければ真剣に移住を考えるところだが、僕はそうするにはあまりにも家族が必要なのだ。
人生は常に限定された可能性の中での選択に満ちている。

 朝食の後、彼女はすぐに出掛けたがった。昨日とは違う街へ買い物に行きたいらしい。そういえば彼女は自らを「買い物中毒人間」だと言っていた。
彼女の夫は自分のことを「アルコール中毒」だと冗談を言っていたし、僕はもちろん「仕事中毒」だと半ば諦め気味で言った。僕は日本人にしては全然そんなことないのだ。

 彼女と車で街へ行き、セカンドハンドショップを三軒回った。
彼女はゴットランド島の宿にあったガラス製の調味料入れを真剣に探していた。それはスウェーデンの古い製品で、フィンランドで見つけるのは難しいらしかった。
 「もう少し探して見つからなかったら、ストックホルムまで買いに行くわ」と彼女は言った。彼女は本当に欲しい物のためには労力を惜しまない。頭が下がる。
僕がその三軒ののうちのひとつで洒落た花のカップを見つける間に、彼女は両手に抱えきれないくらいの服を買っていた。
 「ええ、まだ服を買うのかい?」彼女のクローゼットが、まるでハリウッド女優のものみたいに服で溢れているのを昨夜見ていた僕は、半ば呆れ気味に言った。
 「うん、わかってる。でもね、安いんだもの!」僕は彼女の夫に少し同情した。

 それから僕らはスーパーに行き、またも食材を買った。四人の人間と一匹がいると、それに応じて食材の減りも早くなる。僕は袋に山盛りのトマトとグリーンピースなんかが買い物かごに吸い込まれていく様子を楽しい気持ちで見ていた。服を買うよりもこっちのほうがずっと愉快だ。

 帰りのドライブで、僕らは愛について語った。
 「僕はね、誰かを愛することが怖いんだ。誰かを愛し、その人を失うかもしれないことが」
 「私も七、八年前くらいまではほんとにひどかったのよ。夫を失うんじゃないかってびくびくして、夜中に何度も目覚めるの。それはもうほんとに、質(たち)の悪い悪夢みたいだった。でもね、気づいたの。誰かを失うかもしれないって事実はいつまでたっても消えることはないし、それを心配し続けるだけなんて時間の無駄だってね。もし今夫が死んだら、そりゃとても悲しいけれど、多分私は生き続けると思うわ」

 彼女は強い。強くなったのだ。前に会った時の印象に比べても確実に逞しくなっているのだ。
 「それにね、夫にも同じことを言っているのよ。私が先に死んだら、誰か他にいい人を見つけて幸せに生きてねって。あの人は繊細だから、一人になっちゃいけないの。同居人の彼にも、そうなったら夫に誰かいい人を見つけてって言ってあるのよ」
 「君はなんだか完璧な妻みたいだ。多分、同居してる彼が君の夫の新しい妻になってくれるんじゃないかな」と僕は冗談を言った。
 彼女は笑った。本当の愛の力は、人に弱さよりも強さを与えるようだ。
僕にはまだわからないのだ。

家に帰ると、彼女の夫の母親が来ていた。母親は遠いところに住んでいるらしく、その最後の訪問から実に数年が経過しているらしい。僕らは昼食を共にした。ここで僕は、生でグリーンピースを食べた。
 「グリーンピースは生で食べるものよ。知らなかったの?」と彼女はまたも得意そうに言った。
僕はここでは赤ん坊のようだ。そして、生のグリーンピースは甘くて本当に美味しかった。
みなさんも機会があればぜひ試してください。

そしてほんの少し土のついたベリーや、しばらく洗っていなさそうなまな板で切ったパンなんかも食べた。僕はここに来て少しずつタフな青年になっている気がする。
そう言えば筋肉も少しついてきただろうか。
彼女に言わせると「ノーマッスル。タンパク質摂りなさい」なのだそうだが。

 なにより細かいことがどうだって良くなってきているのだ。だって誰もがこんなにもハッピーじゃないか。それ以上何を望むというのだ。それから僕は太陽の下でコーヒーを飲みながら仕事を始めた。彼女の夫は母親と買い物に出かけ、彼女は犬の散歩に出かけた。

僕は幸せだった。日本にいる誰よりもきっとぐうたらとした暮らしをしているのだろうが、ここでは僕は「仕事中毒人間」と呼ばれている。
そう思うと何もかもが馬鹿らしくなって、可笑しかった。
人生の送り方っていうのは全く可能性に充ちている。それをどう過ごしていくか、なにもかもが自分の選択次第なのだ。

いいか、君が選ぶのだ。僕は、ここで何もしない時間をまだうまく楽しめていないが、これは一種の後遺症のようなものなのだろう。

生のサヤエンドウ

↓続きを読む
【引きこもりの北欧紀行】第三章その10 おやつの時間ですよ

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。