【引きこもりの北欧紀行】第三章その10 おやつの時間ですよ

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 「ねぇ、アイスクリーム食べない?」彼女が誘ってくれた。
 僕はパソコンを隅に追いやり、大きなグラスに入ったアイスクリームとチョコレートケーキを平らげた。
彼女、彼女の夫、そしてその母親。彼らはみんなこれが日常なのだ。ここでは僕が異分子だ。なんて愉快な気分なのだろう。

 朝の空はどんよりとした雲とにわか雨だったが、変わりやすい天気のお陰で外はすっかりと晴れ渡り、じりじりと太陽が照りつけていた。
僕は日本で毎日朝から晩まで働き、そうすることが正しいことだと信じてスケジュールをこなしていく人びとが、こういったライフスタイルを知ることが幸せなのかどうかを疑問に思った。時には知らないことのほうが幸せなこともある。
少なくとも僕は、何人かの忙しく幸せな日本人を知っている。SNSの上で幸せなふりをしているのではなく、本当に幸せな人びとを。知ってしまうともう戻れない。

 不満は比較から生まれる。

 吾唯足るを知る。
 僕の新しい座右の銘だ。

 今日も彼女が夕食を作ってくれた。ここのビュッフェスタイルを僕はわりに気に入っている。職業や育った文化の違う友人たちがルームシェアをする海外のホームドラマみたいに、僕たちはそれぞれのストーリーを持ってこの場を共有していた。一つの皿に全ての料理をぎゅうぎゅう詰めにしてしまうここの食べ方みたいに、いろいろな感情や色や匂いが交じり合っていた。

 夕食を終えシャワーを浴びた後、僕は庭に出てビールを飲んだ。ここに来て初めてのビールだ。例の友人Vが夕食後に近所のスーパーで買ってきてくれたのだ。
今や僕は彼が極度の人見知りだとは信じない。僕に冗談を言い、ビールを進める彼と僕は、もう友人と言って良さそうだった。Vは平日毎日働きに出ている。
もしかしたら彼女夫婦が特別なだけで、ここに住むごく普通の人達は、日本のようにとはいかなくてもわりに真面目に働く必要があるのかも知れない。

 「来年の春、日本に自転車の旅に来るって本当?」僕は彼女に聞いていたことを話題に出した。
 「まだわからないね。仕事のスケジュールがあるから。自転車で回るなら二週間、できれば三週間は行きたいところだけれど、本来僕たちは夏に休暇を取ることになっているから。春にうまく合わせられるかどうかわからない」と彼は言った。彼は毎日片道20kmを自転車で通勤しているくらい、クレイジーなスポーツマンなのだ。

 彼を見ていると、僕は少し安心する。そう、働いていていいのだ。何かすることがあって、いいのだ。
確かに日本はあまりにも分刻みで、家に誰も家族がいなくて、外で仕事をしたり友人と外食したりばかりしているし、そういった点では狂った国なのかもしれない。
けれど汗を流して働いて、たまに自分だけの好きな時間を持って、大切な人との生活を守って育てることに重きをおく僕は、やはり典型的な日本人の考え方なのだろうか。
ここに来て少し仕事をする以外は好きなように暮らしていて、そろそろ僕の体の一部がナマケモノみたいに変身しつつあるのを僕は感じている。とてもじゃないけれど、こんな生活を一生続けることなんて僕にはできない。毎日が罪悪感の塊みたいになってしまう。

そして休まることなく頭で生産し続ける高度経済成長的考え事だとか、中世ヨーロッパの優美さを感じるまでに美味い乳製品やパンのカロリーだとか、受けるばかりの優しさだとか、そういうものを身体に溜め込み続けて、いつか爆発するだろう。
なんだって、なんにもやる気が起きないし、なんにもする必要もないのだ。こういうのは、たまだからいいのだ。

 彼女が撮影したゴットランド島の写真を友人Vに見せている途中、ビールのおかげで僕はうとうとしていた。僕は酒に弱い人間なのだ。
 「あら、お昼寝してるの?」写真の解説を友人にしながら、彼女はくすくす笑いながら僕を覗きこんだ。
 「いや、してない」僕はわざとらしく目を見開いて彼女に見せた。
 傍から見ればなんと平和な光景なのだろう。僕はそんなことをぼんやりと思いながら、誰よりも早くおやすみを言った。

チョコレートケーキとアイスクリーム
おやつの時間ですよ

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【引きこもりの北欧紀行】第三章その11 フードシック

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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