【引きこもりの北欧紀行】第三章その11 フードシック

あらすじを読む 【引きこもりの北欧紀行】 〜あらすじ〜
はじめから読む 【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1
旅のしおりを見る
【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ
【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷

Finland Day 5

 夜中に三度も起きる羽目になった。ビールと西瓜が絶大なコンビネーションを発揮したのだ。
真っ暗な家の中を歩く時はほとんど何も見えないものだから、僕は目をつむってそこにあるべき風景を頭のなかにうまく描きながら進んでいく。
トイレの電気を点灯した瞬間、僕はぱっと現実に放り出される。それからしばらくは、努力したって眠れやしないのだ。

 朝ごはんの後に一時間ほど仕事をしてしまうと、もう後はやるべきことがなくなった。僕はそろそろ日本で用済みの人間になりつつあるのかもしれない。いや、ここでは元から役になんて立ちやしないのだが。
そうしてしまうと急に眠気が襲ってきた。昼寝をするには早すぎたが、僕はベッドに潜り込んだ。

 今日は彼女と夫が仕事に出かける日だ。彼女は、今は学生の身だが、夫の仕事場によくついていくらしい。
 「一人より二人でやったほうが早いじゃない」と彼女は言った。
 一体彼女の夫がどういう類の仕事をしているのか、僕は実に不思議に思ったが、やはり推測することは控えた。何もかもが想定の範囲外であることは、僕はすでに学習済みなのだ。

 11頃に彼らが出掛けてしまうと、急に家中がしんとなった。そう言えばひとりきりになるのはかなり久々かもしれない。
妙に時間を持て余した僕は、妹に電話をかけることにした。
もちろん国際電話の長い列に並ぶこともなく、高い料金を払うこともなく、ベッドの中から。

僕のうちには、妹の友人たちが来ていた。僕は彼女たちがかなり好きだ。
彼女たちといると、僕は曲がった劣等感なり、くすんだ優越感なりをきれいさっぱり忘れ去ることができるのだ。いつでも妹の友達でいてくれた彼女たちを、僕はもう何度も抱きしめている。
電話口からは、久々に感じる日本のムッとした熱気と、いつもの慌ただしさが伝わってきた。妹は日本人離れした「時間セレブ」だが、それでも今の僕よりはスケジュールを持っていた。
日本は今、お盆休み真っ只中だ。誰もが休みを休みらしく過ごそうと躍起になっている。そして、中にはもちろん仕事を愛する人もいる。

 妹と電話を切ってしまうと、僕は思考した。誰にも邪魔されることなく、静かに思考をした。ここで見た、人びとの生活を。僕の家族のいる日本を。あまりに早く、矢のように過ぎ去ったこの2週間を。僕のこれからのことを。
生理前に一人でこういう思考をすると、ろくな事がない。思考はデフレスパイラルに陥り、孤独な憂鬱から抜け出せなくなる。何かものを食べよう、と僕は思った。生理前は決まって食欲が増す。僕は特に症状が重い方なのだ。本当に厄介だ。ほとんど女をやめてしまいたくなるほどだ。

 キッチンは随分と散らかっていた。僕はこういうのを見ると決まって綺麗に片付けたくなるのだが、なにしろ食器洗い機の使い方がわからない。仕方がない、見なかったことにしよう。
運の悪いことに、家にはあまりまともな食料がなかった。僕の好きな野菜と果物だけは豊富にあったが、今の状態の僕はそれでは満たされない。とにかく野菜と果物を食べてみたが、やはりダメだった。
昨日の夜味見させてもらった、フィンランドの伝統的なパンとクラッカーを食べた。歯が折れそうなほど固く、体の水分の5%は持って行かれてしまいそうな代物だ。彼女の夫の好物でもある。
味覚に関してだけは、僕はここの人と価値観を共有できそうにない。
それから残っていたヨーグルトと、ナッツと、スウェーデンから持ち帰ったチョコレートを食べた。日本からおみやげに持ってきた味噌汁によほど手を付けてしまいそうになったが、これは明日リトアニアの友達に渡すぶんなのだ。がまんがまん。

僕はホームシックになるより前に、フードシックになった。日本の食べ物が食べたかった。何はともあれ、血糖値が上昇して僕の精神はなんとかひと心地着いたようだった。僕は彼女に会いたい、と思った。

↓続きを読む
【引きこもりの北欧紀行】第三章その12 あの日のサウナ

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。