【引きこもりの北欧紀行】第三章その12 あの日のサウナ

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 二人は午後の2時47分に帰ってきた。思ったよりもずっと早かった。
 僕はキッチンへ戻り、机にこんもりと載せられたラズベリー、ブルーベリー、生のグリーンピースを見た。
 「好きなだけ取って食べてくれ」
 「可能な限り、食べてね」
 彼女とその夫が続けざまに言う。
僕は先程の暴走のせいで腹が減っていなかったが、寂しかったので食べた。フレッシュなラズベリーとブルーベリーなんて、日本の都会ではなかなか手に入らないのだ。

隣では彼女が夕食の準備をしていた。彼女がエプロンをつけると、すごく可愛いのだ。
僕はやはりパソコンの前でほとんど自動的にベリーを食べ続けた。
外では午後の雷雨が止んで、太陽が出ていた。僕は外に出て、一日中座っていた腰と背中を伸ばした。やはり人間、太陽の光がないと元気が出ないのだ。
それは嫌というほどわかっていたが、出たくない時は出たくないのだ。
彼女に借りた大きなパジャマ姿のまま、僕は一人でため息をついた。

 「僕らは夕食を食べるけど、どうする?」
 彼女の夫が僕に声を掛けたのは、まだ夕方の五時にもなっていなかった。もちろん空は明るく、何かを祝福する真昼のパレードのように青空と太陽が天に描かれていた。
 「もう半時間ほど後にするよ」腹は全く減っていなかった。
 「おっけー。いつでもお好きな時に」彼はひどく親切な人だ。時に気を遣いすぎていないか心配になるほどだ。
 「ねぇ、夕食ができたんだったら。一緒に食べましょうよ」彼女が僕を呼んだ。
 「わかったよ。今行く」どうやら僕に選択肢は残されていないようだった。

 今日は彼女特製のフィンランドの伝統的な野菜のミルクスープと、サラダとパンというヘルシーな夕食だった。
 そして、そのスープはすごく美味しかった。体の芯から温まった。ここの夏は、夏と思って過ごすには少々寒いのだ。僕はやはりたくさん食べた。こういう日には、胃の占有具合と僕の食事量はこの際関係ないのだ。
むしろ、なにかしらヘルシーではないものを食べたい気分ですらあった。アイスクリームだとか、チョコレートだとか、マフィンだとか、そういう類のものだ。けれど、彼女たちは夏はヘルシーに生きる人々なのだった。

 彼女は僕に何冊もの料理本を見せてくれた。その中にはもちろん日本食の本も混じっていて、僕はその最初の数ページだけを読んで本を閉じた。
 「だめだ。日本食が恋しくなっちゃう」
 「そうね、今のあなたは見ないほうがいいわ」
 「なにか食べるよ。なんだか食欲がうまくコントロール出来ないんだ」
 「そういうのは、仕方のない事だものね。私も何か食べようーっと。ああ、ここにいるとずっと食べちゃうみたい。Eating problemよ〜誰か助けて〜」
 それが彼女の優しさなのか、それとも普段節制している彼女の欲望のはけ口になったのかはわからないが、僕はなんだか救われた気分だった。僕はベリーと西瓜となぜかパンをデザートに食べ、ようやく落ち着いた。気分が悪い。毎月僕はこういった状況に陥る。目をつむってじっと時がすぎるのを待つしかないのだ。

 「ねぇ、サウナに入りましょうよ」と彼女が言った。
 フィンランドでは、一般家庭にサウナがある場合が多い。前にここにホームステイさせてもらったのは冬だったが、その時も毎日のようにサウナに入った。サウナでビールを飲んで、ほとんど病院に担ぎ込まれそうになったのが昨日のことのようだ。
この夏、彼女の夫がそのサウナを美しくリフォームし、今日はその新しいサウナのデビュー日となった。僕と彼女がめでたく新サウナ経験者第一号と第二号になったわけだ。薪をくべ、その上で熱くなった石に水をかけて水分を蒸発させ、その熱気でサウナ内を温める。
前と変わらない、懐かしいサウナに僕は嬉しくなった。
冬は真っ暗なサウナも、今の季節は窓から光が差し込む。

留学中の冬休みにここを訪れた時、僕はサウナの中で彼女と話しながら泣いたのだ。スウェーデンの大学での挫折、体調不良、日本で起こっていた家族の問題、何もかもが僕の許容値を超えていた。僕は子どものように泣いたのだった。

 あれから二年と半年が経った。僕も彼女も随分と変わった。もちろん色々なことがあった。
何もない二年と半年なんて、これまでの人類史上に存在したことが果たしてあっただろうか?僕らは笑い合いながら話した。

何もかもが、うまい方向に変わってくれていればいいな。そしてこれからも、なんとかやっていけるといいな。人事を尽くして天命を待つ。僕はこの言葉が好きだ。明日はまた、古い友人との再会が待っている。

 僕はこの一ヶ月で、何かを取り戻し、きちんと次に進むのだ。

サラダ
サラダとスープとパン。
日本の女の子なら、これでお腹いっぱいだろう。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その1 リトアニア 学生時代への回帰とそれぞれの成長

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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