【引きこもりの北欧紀行】第四章その4 例のピンクスープ

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 そうこうするうちに、目的地に到着した。ここはリトアニアの古い集落や家を展示している、屋外博物館らしかった。
 「リトアニアの自然が大好きなの。空が高いし」
 「青いしね。本当に空気が綺麗だ」

 僕たちは、色とりどりの家が集まる広場へ出た。本屋があり、小さな市役所があり、民家があった。なんてことのない、昔のリトアニアの建物だった。
そんな中に本物の店があった。小さな売店だ。ここで彼女はアイスクリームを買ってくれた。僕にはいちご味、彼女はバニラ味だ。草むらに座って一休みしながら、アイスクリームを食べた。見るからに人工的なピンクのそれは、子供時代の味がした。

 それから僕たちは、広い園内をゆっくりと歩いて見て回った。大抵は彼女がリトアニアの歴史や家の作りを説明してくれ、僕がふんふんと頷いているだけだった。少し長い説明や難しい説明になると、彼女がパッと英語に切り替えるのが面白かった。
それに3種類の言葉を時と場合に応じて使い分けるなんて、これはもう才能としか言い様がない。こんな可愛くて優しくて頭のいい女の子を放っておくリトアニアの男の目は、きっと節穴に違いない。

 今日は国民の休日のため、園内には出店(でみせ)が出ていた。軽食やジャムやはちみつなんかがたくさんあった。
リトアニアの料理は正直言ってかなり変わっている。それだけ土地の色が濃いということだから、それはそれでいいのかもしれない。フィンランドにはあまりこれといって伝統料理なんてものはなかったから。
それでも、豚の耳だけは本当にいただけない。

僕はそろそろ帰りたいくらいに疲れきっていたが、彼女はそれでもかなりエネルギーがあり余っているようだった。
僕のことを気遣い、僕のしたいようにさせようとしてくれるのだが、故郷のリトアニアを見せたくてたまらない、と言った風だった。僕と彼女は、小さな子供たちに混じって簡単な作りの馬車に乗った。ぐるりと園内を一周するだけの小旅行だったが、少し上から眺めるリトアニアの土、木、建物、人びとは僕に再びリトアニアにいることを思い出させた。

 帰り道にショッピングセンターに寄り、晩ご飯の材料を買った。ここにはフィンランドよりももっと大きな西瓜があって、僕はあっけなくそこに釘付けになってしまった。それを見た彼女は、「じゃあ、買おうか!」と言ってかごに入れてくれた。もちろん僕が三人はすっぽり収まってしまうくらいの大きなかごに。

 家に帰ると、既に七時を回っていた。いくら数ヶ月ジムで鍛えたとはいえ、体力のない僕の身体は臨界点を二度ほど突破した後みたいに枯れてしまっていた。ここでひと息ついてしまったら最後だ。
僕たちは早速夕食の支度を始めた。きゅうりとトマトを切って皿の周りに並べ、その中にカリフラワーと人参のホットサラダを入れた。ドレッシングは、日本で妹に教えてもらったにんじんと玉ねぎのオリーブドレッシングを即席で作った。これだけだ。なんということはない、これだけだ。あとは彼女が自分に肉を焼き、僕はパンを食べた。簡単すぎて申し訳ないくらいの夕食だ。

 「ああ、おいしい。本当に料理が上手なんだね。こういうご飯、久しぶりだなぁ。やっぱり家のご飯はいいね。いつも夕食は冷蔵庫から適当に出すだけだから。リトアニアは昼食が一番大切で、夕食は本当に軽く食べるだけなの」と彼女は本当に幸せそうに食べた。
 「それにね、お父さんもお母さんも働いているから本当に時間がなくて、ちゃんと料理を作れないんだ」と。
 「ほとんど料理らしいことはしてないけれど、僕もこういう食事が好きだから嬉しいよ」と僕は言った。なんだか少しだけ悲しくもなった。

 さて。ここでもう一品口にしたことを声を大にしてご報告したい。
 ピンクスープ。

 ガイドブックで見たことがあるかもしれない。本当の名前は何なのだろう。とにかく、色がペンキをこぼしたみたいなピンクなのだ。よく熟れた桃の果実でも、桜の花びらでも、和菓子の練りきりのような透明感のあるピンクでもない。子供の頃、あの真っ白な画用紙に塗りたくったピンクのクレヨンみたいな人工的な色をしていた。
このスープの正体は、赤色のビーツだった。ビーツと牛乳がこの色を出すのだということだった。牛乳と言っても、古くて悪くなった牛乳を敢えて使うそうだ。

リトアニアの人はみんなこのスープが大好きなの、と彼女が言っていたものだから、僕としては試してみないわけにはいかなかったのだ。味の感想は、思ったよりも悪くなかった。決してお世辞にも美味いとは言えなかったが、このグロテスクな見た目からすると、まだ口にできた。
ただ、匂いがダメだった。僕がこれまでに経験したことのない、口から手を突っ込んで胃の中をかき回されるみたいな匂いだ。いつまでも胃の中に張り付いて離れない。それでも、この料理を口にしたという経験だけは手に入れたのだ。吐き気を催しながら、僕は僕を讃えた。

 夕食が終わると、彼女がずっと見てみたかったという日本のドラマを見始めることにした。海外に長くいる時、夜に時間が空いたら映画やドラマを見るというのが定番みたいになっている。僕は半分閉じかけた目で画面を見つめていた。
そのドラマは、専業主婦の女性が、子どもの自立をきっかけに自宅を改装してカフェレストランを始めるというものだった。従業員には少し風変わりで暗い事情を抱えた人びとが集まり、それぞれの人間ドラマを描くというスタイルだった。
僕は日本にいる時はほとんど絶対と言っていいほどドラマを見ないが、このドラマはそこそこ面白かった。ベタな展開に安心できたし、それなりに新しさもあった。このように、完結された綺麗事みたいなドラマをたまに見ると、混沌とした世界の中で光を見つけたみたいな気持ちになる。

 僕たちは買ったばかりの大きな西瓜をカットし、女二人だけの楽しい時間を過ごした。

歴史博物館
ここに行きました

リトアニアの歴史
「お母さんのお母さんはこういう家に住んでいたの」と彼女は言った

馬
これに乗りました

農家

トマト
こういうの、たまりません

バームクーヘン
リトアニアでは、有名なバームクーヘンらしいです

スイカとドラマ
スイカとドラマ。
これ以上の贅沢があるだろうか。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その5 トラカイ城

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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