【引きこもりの北欧紀行】第四章その5 トラカイ城
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Lithuania Day 2
六時半起床。昨日の西瓜のせいでまたも夜中に何度もトイレに立ち、あまり熟睡したとは言えなかった。いつまで経っても学習しない僕なのだった。
この旅行記を新鮮なうちに書き留めておくために、できるだけ朝の時間を確保するようにしている。せっかく友達と過ごす時間なのだ。旅行記を書くために日がな一日家にこもっているなんてことにはなりたくない。
彼女は八時半頃に起き出してきた。休日の彼女にしては、本当に会心の起床時間だ。今日はトラカイという地域まで城を見に行くことにしている。
「今日はあまり歩きまわらないと思うし、昨日みたいには疲れないよ」彼女は僕に微笑んだ。彼女は友達に「いつも微笑んでいる」とよく言われるそうだ。そう言われると、いつもその人に会うときは微笑んでなくちゃいけないみたいな気分になってしまう。わかるわかる。僕らは似たもの同士だ。
トラカイまでは車で一時間ほど。土曜日の朝早くということもあって、まだ比較的人は少なかった。
トラカイの大きな湖の真ん中、孤島になっている場所には、リトアニアで一番有名な城がそびえている。僕はリトアニアに来たらここに来るのが夢だった。城までの大きな橋、煉瓦の壁、物憂げに置かれている椅子、王子たちが座った椅子、狭く暗い螺旋階段。その全てが僕の脳内に物語を紡いでいった。写真を撮りながら、僕の胸は踊っていた。
城のてっぺんには売店と郵便局があった。売店には気の利いたポストカードが売られていて、そのとなりには城外の広場が見渡せる小さな出窓があり、そこの机と椅子でカードを書けるようになっていた。僕はまたも日本の家族にポストカードを書いた。こんな風に相手に返事を期待せず、一方的に想いを伝えるというのは、普段の生活ではなかなかしないことだから、ちょっとむず痒い。家族はどうしているだろうか。きっと元気でやっていることだろう。
城を出て、僕たちはランチにした。実を言うと、きちんとレストランで外食をするのは旅行に来て今日が初めてだった。リトアニアの伝統的な料理、というよりもこのトラカイ地区で有名な料理がある。
「キベナイ」と呼ばれるそれは、見た目は餃子を大きくして、こんがりと焼いたみたいな様子をしている。ラグビーボールのようにも見える。しなびたナスか、あるいは日曜日のピクニックに持っていくバスケットの取っ手かもしれない。どんどん遠ざかる気がするので、ここらでやめておく。
中の具材には肉、野菜、チーズなど様々な種類があるようだ。それを練りタイプのパイ生地で包み、卵を塗って焼きあげる。出来立てのそれは熱々で、少しばかり身体が冷えていた僕には嬉しかった。僕は玉ねぎだとかトマトだとかを煮込んだ野菜のキベナイ、彼女はほうれん草とカードと呼ばれるチーズの一種を包んだキベナイを取った。
僕の胃には少し重たかったが、昨日のピンクスープに比べると手を合わせるくらい美味かった。まともな食べ物というのは、その国全体の印象をも上げうるのだ。僕のフルーツティーと彼女のクミンジュースを合わせても、二人で600円ちょっとだった。
リトアニアは物価が安い。日本でも選ばなければ安い外食は見つけられるが、こんなちゃんとしたレストランでこの安さには驚かされた。彼女に教わり心ばかりのチップを置き、店を後にした。
「どうしても見せたいところがあるの。歩ける?」と彼女は言った。僕の足も胃も疲れ始めていたが、そう言われると行くしかない。そのまま湖の周りをぐるりと裏側まで歩いた。人気も少なくなり、道が狭くなっていた。明らかに観光地とは様子の違う雰囲気に、僕は少々心配になった。突然、目の前におばけ屋敷が現れた。
「ここ、もう誰も住んでないの。せっかく大きなお家なのに、もったいないね」と彼女は残念そうに言った。
「でもここ、見て」
そう言う彼女について歩を進めると、湖の辺り(ほとり)に出た。そこからは先ほど登った城が一望できた。彼女はこれを見せたかったのだ。湖の上には、気持ちよさそうにボートを漕ぐ人が溢れていた。鴨たちも人びとも、もうじき終わりを告げる夏を慈しむようにゆったりとした時間を楽しんでいた。水面がキラキラと反射して、まるで誰かが水の中から鏡で僕たちをからかっているみたいだった。
彼女が石を拾って、水の中へ投げ始めた。
「これはね、心配事なの。私の中にあるたくさんの心配事がこの石でね、それをこうやって水の中に投げるの。そしたら全部沈むの」
最後の方は、彼女の目は僕を見ていなかった。
彼女は今、そういう時期なのだ。僕と彼女は、黙々と石を投げ続けた。彼女の気の済むまで、いくつもいくつも石を湖に投げ続けた。
「肩が外れちゃいそうだ」全力で投げ続けていた僕は、彼女を見てそう笑った。
「じゃあ、これで最後。ばいばーい!」
そうして僕たちはまた観光地にいるただの観光客に戻り、土産物を買った。
このお城は、今書いている新しい小説の舞台になっています。
キベナイ。おいしいですよ。
廃墟
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【引きこもりの北欧紀行】第四章その6 湖と、太陽と、舟と。
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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