【引きこもりの北欧紀行】第四章その6 湖と、太陽と、舟と。

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リトアニアで採れる「琥珀」や、リネンのかばんなど、とにかくたくさん買った。
 やっとのことで車に辿り着き、僕は息も絶え絶えだった。大げさではなく、僕はこんなに長く連日歩くことに本当に慣れていないのだ。
 「車で帰る前にね、連れて行きたいところがあるの」彼女は秘密でも打ち明けるみたいに言った。
 「何だって?最高じゃないか、行こう!」僕は半ば自棄気味で、彼女の親切な気持ちにこちらも全力で付き合うことにした。彼女は僕にリトアニアを見せてくれようとしているのだ。それに、月曜日からはまたお互い働かなくちゃいけない。

 そこから次の場所までは、車ですぐだった。ただ、車を停めてから目的の場所まで随分と歩かされることになった。もうとっくに限界を迎えていた僕の口は、ついに不満をこぼしはじめた。
 「ねえ、まだ着かないかい?ちょっとそろそろ本当にやばそうだ」
 「もう少しだから。我慢して」
 「わかったよ。頑張るよ」
 それから黙々とさらに十分ほど。目の前に真っ白な建物が現れた。
 それは結婚式場のようで、多くの新郎新婦がそこでウェディング写真を撮っていた。

 「こっち。見て」
 彼女に連れられて行った先で、僕は息を呑んだ。
 王宮のような結婚式場の裏には、大きな湖が広がっていた。そして、そこから遠くにトラカイの城が見えた。それは文句なしに絶景だった。すっかり疲れがぶっ飛ぶ、というわけにはいかなかったが、彼女がどうしても僕をここに連れて来たかった理由がわかった気がした。

 「本当に素敵だ。来てよかったよ。ありがとう」僕は彼女に礼を言った。
 「ね、いいでしょ?もうどこにも連れて行かないから安心して」
 彼女はいたずらっぽく笑った。

 家に帰りつくと、ソファーに倒れこむようにして僕の電池は切れた。彼女が西瓜を切ってくれ、僕たちは休憩しながらドラマの続きを見ることにした。非常に非常に残念なことに、西瓜には例のピンクスープの匂いがすっかり移ってしまっていた。彼女の家ではラップを使う習慣がないらしく、冷蔵庫で何もかもがごったまぜになってしまうのだ。僕は再び気分が悪くなってしまった。

 夕食の支度をする間、彼女に冷蔵庫の掃除をさせた。
 「ああ、これもダメ、これもダメになってる。家族のご飯を食べる時間がバラバラだから、他の誰かのかも知れないと思って捨てないうちにいつもこんなになっちゃうのよね。みんな忘れちゃうの」とのことだった。何はともあれ、冷蔵庫は一時的に平和を取り戻した。

 夕食には、昨日のサラダの残りと、冷蔵庫で死にかけていたトマトとズッキーニとにんじんを使ってコンソメスープを作った。トマトは15個くらい冷蔵庫に控えていたし、にんじんは三袋くらいが今にも腐りそうになっていた。そして、同じく冷蔵庫で固くなっていた彼女の牛肉でスパニッシュオムレツを作った。とうもろこしも茹でた。僕はこの家のハウスキーパーになったほうが良さそうだった。

 「ああ、おいしい。あなたの作ってくれた料理は、ほっとする」
 彼女は今日も実に美味そうに僕の料理を食べてくれた。こういう瞬間は結構本当に幸せな気分になる。案外専業主婦で上手くやっていけるかもしれない、という考えが頭をよぎった。

 夕食を終え、僕はシャワーを浴び、彼女はピアノを弾いていた。彼女の妹はヴァイオリニストを目指して大学院に通っているが、ピアノも上手いらしい。彼女もまた、妹の影響を受けてピアノを弾くのだ。

 それから彼女は僕に彼女の描いた絵を見せてくれた。
 「前は毎日のように描いてた。でも今は時間がない。将来やりたいこともよくわからない」
 彼女の絵は、素人目から見てもかなりよく出来ていた。ストーリーもあった。きっとこれ描いている時は夢中で描いていたのだろう。
彼女は今、節目に立っている。僕にできることは、ない。経験を語っても、価値観を共有しても、彼女が決めていくしかない。それでも、誰かが傍にいて話をするのって、悪くないんじゃないかと思う。彼女が日本に来たら、思い切りスポイルしてやる。
 僕は、今日は疲れた。

リトアニア
太陽の光は、水の反射を受けてより輝く。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その7 リトアニアの裏側

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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