【引きこもりの北欧紀行】第四章その7 リトアニアの裏側

あらすじを読む 【引きこもりの北欧紀行】 〜あらすじ〜
はじめから読む 【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1
旅のしおりを見る
【引きこもりの北欧紀行】第二章その1 ゴットランド島 憧れの魔女の島へ
【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷
【引きこもりの北欧紀行】第四章その1 リトアニア 学生時代への回帰とそれぞれの成長

Lithuania Day 3
 ギリギリまで寝ていたかった。胃がひっくり返るみたいに気分が悪く、元気も出なかった。水道からの硬水と、ピンクスープの脅威と、連日の疲れと、それから海外にいることのあらゆる異質感がいっぺんに吹き出してしまったみたいだった。時刻は6:44。起きる時間だ。今日は朝のマーケットに連れて行ってもらう予定なのだ。

 彼女も疲れているはずだったが、ちゃんと七時過ぎに起き出してきた。何としてもマーケットには行きたいということと、今日は早く帰ることを約束して、僕たちは八時頃に家を出た。外は完全な秋みたいに肌寒かったので、僕はジャケットとストールを彼女に借りた。

 「マーケットは汚いし、スリもいるから気をつけてね。今日はリュックを持って行かないから」と彼女は僕にジッパーのポケット付きのジャケットを貸してくれた。
 彼女の言葉にリトアニアという国の裏側を、少しだけ垣間見た気がした。日本にももちろんそういう場所や世界はある。けれど、ここでは普通の人の日常にそういうことが入り込んでいるのだ。彼女がいつも車や家の鍵を異常なまでにチェックする訳が今ようやくわかった。

 マーケットでは、彼女のお気に入りの布地屋さんに行った。そこには数え切れないほどの布が束で並べられており、僕たちはその中から鳥の柄の布地を選んだ。彼女が僕にブックカバーを作ってくれるというのだ。全く、彼女はなんでもできちゃうのだ。料理と冷蔵庫の管理以外。

 あまり目当ての品が見つからなかったので、僕たちは次に別のマーケットに行くことにした。そこには食料品や、キッチングッズなんかもあった。そこで僕はタルト型を買った。家にあるものでは足りないことがあったから、安くで手に入れられたのはラッキーだった。
 リトアニアの観光地以外では、年配の人で英語を話せる人は少ない。彼女に随分と助けてもらいながら、「アーチュ(ありがとう)」とだけ店員のおばさんに伝えて店を出た。リトアニアの言葉の響きは可愛い。
 所狭しと並ぶ青果売り場で、ブルーベリーのような実とプラムとマスカットを買った。どれもむき出しで、たまに蜂がブンブンと飛んでいたけれど、そんなことをいちいち気にしていたら、海外で食べ物なんて何も食べられないのだ。僕の胃の調子がおかしいのは、まさにそのせいかもしれないが。

 家に戻ると、彼女がフルーツサラダを作ってくれると言って準備を始めた。彼女は本当に優しいなあ。そんなことを考えている内に、ソファーの上で眠り込んでしまった。目を覚ますと僕の上にブランケットが掛けられ、目の前にパンと温かいハーブティーがあった。
 「おはよう。気分はどう?フルーツサラダもあるわよ」
 彼女はそこにいて、早速僕のブックカバーに取り掛かってくれているようだった。
 「ありがとう。いただくよ。幾分よくなったみたいだ」

 食欲はなかったが、時間をかけて彼女の優しさを食べた。そしてまたドラマを一緒に見た。僕の中のインドア性向が主張を始めているようだった。こういう休日の過ごし方も、全く悪くない。むしろこういう時間の過ごし方に慣れてしまっているのだ。
ドラマを見終わってしまうと、また眠気が襲ってきた。眠ることで解決すると考えているらしい僕の身体に、今回は素直に従っておくことにする。
 その後、彼女は買い物に出掛けた。僕のために、コーンとオレンジを買いに行くというのだ。僕も付いて行くといったが、休むように言い渡された。

 彼女の両親がラトビアへの旅行から帰ってきた。
 おみやげをたくさん抱えて楽しそうな表情の二人は、「仕事するために帰ってきたわよ」と相変わらずパワフルだった。

 ちょうど夕食の時間だったので、僕たちは一緒に食事をした。昨日のスープとスパニッシュオムレツがまだ残っていたので失礼かと思いながらも食卓に並べ、そうしたら二人とも美味しそうに食べてくれた。
 「いやー、甘やかされちゃってるね」と野菜嫌いの彼女の父親が言う。僕は気の置けない人以外の前で食事をすると緊張で息が詰まってしまうのだが、それでも二人が慣れない英語で会話をしてくれようとするのには随分癒やされた。
 それから彼らのラトビア旅行の写真を見て、僕と彼女は少し出掛けることにした。

フルーツサラダ
やさしい。

↓続きを読む
【引きこもりの北欧紀行】第四章その8 これは散歩道じゃない。

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。