【引きこもりの北欧紀行】第四章その10 動く太陽、動かない太陽

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Lithuania Day 5
 今日はダメな日だ。起きた瞬間にそう感じる日がある。今日はまさにそんな日だった。そろそろ海外生活の疲れが出始める時期なのかもしれない。

 特に何をするわけでもなく、誰もいない家でぼんやりと本を眺めながら何かしら物を食べ続けて口寂しさを紛らわせていた。
パンも、甘いものも、見境なく。

僕は寂しかったのかもしれない。食べすぎて気分が悪くなり、僕は少し散歩に出掛けることにした。もちろん迷子になってしまったら元も子もないから、Wi-Fiとスマートフォンは携えて行った。結局近くの病院の中にちょっとした公園を見つけ、そこをブラブラとした。三十分ほどの散歩を終えて家に帰ると、今度は眠気が襲ってきた。

数時間の眠りから目覚めると、鋭い痛みが頭に走った。なんだって今日は本当についていない日だ。僕はこれでも、役立たずのロクでなしではなくクイーンだと胸を張れるのだろうか。

 パソコンの前に座る気も起きず、だらだらとベッドで過ごしていた。
そんな時、彼女から「元気??」と連絡が入る。僕は正直に、今日の最低な自分を報告することにした。すると、すぐさま彼女から鎮痛剤の置き場所と、その薬の仔細な写真が大量に送られてきた。
彼女の心配ぶりに少し申し訳なくも思ったが、嘘をついて明るく元気に振る舞っても何も解決しないことを僕はもう知っている。そして、その鎮痛剤を飲むと、不思議なことにすうっと痛みが引いた。

 今日は彼女よりもご両親のほうが早く帰宅していた。彼女の父親は僕に「やぁ、元気かい?退屈しなかった?」と声を掛けてくれたし、彼女の母親は肉を食べない僕のために、豆腐とパンとナッツをたくさん買ってきてくれた。僕は心底彼らの待遇に感謝した。ただでさえ忙しい日常に、好き嫌いの多いピッキーな日本人が紛れ込んできたのだ。
それを面倒だとも思わずに気遣ってくれるのが心底嬉しかった。改めて、この娘あってのこの両親あり、と言った風だ。

 すっかり元気になった僕は早めに夕食を済ませ、彼女と中心街へ出掛けることにした。実を言うと、僕にとってこれが初めての中心街散策となる。ただの観光ではなく、友人の家に世話になるということは、こういうことだ。その国に、いわゆる観光地から入国しないのだ。

 時刻は20:30まで少し間があるくらいだったろうか。彼女の会社の近くに車を停め、小高い丘にあるカフェに向かった。
カフェと言っても、席は全て屋外テラスで、メニュー数もさほど多くはない。けれど、ここからは街の全てが一望できた。そして、ちょうどサンセットが最高の状態で見える時間だった。

 サンセット。これは日本語で言うと「日没」ということになるのだろうか。しかし、この地平線に暮れゆく太陽を、しみじみと感傷的な気分に浸りながら見つめる時間というのは、サンセット以外の言葉でうまく表現できる気がしない。「日没」では、まさに太陽が沈むそのことである響きがあるし、「夕暮れ」「夕焼け」では、その瞬間を切り取ったオレンジの空を思い浮かべるし、「夕陽」は太陽そのもののような印象を持つ。言語というのは奥が深い。

 テラスには顔をオレンジに染めた人びとが語らい、皆が夕陽の方を見ていた。彼女がご馳走してくれたカフェラテは、少し肌寒い夏の終わりの夜に僕の体を温めてくれた。彼女はふざけた冗談みたいに甘ったるいミルクシェイクを飲んでいた。彼女はコーヒーが飲めない質(たち)の人なのだ。

 昼間はあれほどまでにゆっくりと、ほとんど動かないように見える太陽が、地平線に近づくにつれ急に速度を増して沈んでいくというのは、どうも不思議なものだ。いつまでも眺めていたいくらいの美しいオレンジの煌きは、瞬く間に群青色の空に溶け込んでいき、最後は地球の裏側へと旅立っていった。今頃、地球の何処かで新たな一日を告げるべく、光を注いでいるのだろう。休みなく動き続ける太陽に、僕はこっそりと礼を言った。とにかくこのようにして、人間の一日は暮れてゆく。

 彼女は今日は仕事がうまくはかどらなかったらしく、明日に備えて早く眠った。日中休みすぎた僕は、再び眠気が僕の体に訪れるまで、二年前に彼女がくれた本を読んでいた。日本でも映画になった、動く城のお話。英語の本というのは、こういう時でもないとなかなか重い腰が上がらない。

リトアニアカフェ

日没1

日没2

日没3
だんだんと、でも急速に沈みゆく太陽。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その11 美しい緑の湖があるの

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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