【引きこもりの北欧紀行】第四章その11 美しい緑の湖があるの

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Lithuania Day 6
 せっかく海外にいるのだから、できるだけどこかに足を運んで、たくさんの写真を撮って、そこでしかできないことをしたらいい。そういう主義の人も確かにいる。
しかし、その旅行が一ヶ月以上に渡る長いもので、おまけに引きこもりがちな人間が海外にいると、そうはならない。ひねもす外にいることが疲れてくるし、非日常であることがだんだんと日常として自分の中にミックスされてくる。ここでずっと暮らしているかのような気分にさえなる。

 そういう意味では、今回のホームステイは僕にとって最高の条件だった。それに、僕は自分で見て感じたことをいちいちこうして「文章」という形にして残しておきたいのだ。ぼんやりとした思考を、文字という見える形に置きかえて、吐き出してみる。そしてそれを新たに自分の中に取り込もうとする時、一次体験とはまた違った見え方をする。こういうのもまた、「ここでしかできない経験」だと豪語する僕は変わった人間だろうか。

 いつものように、一人でランチを摂る。今日は天気が良いから、外のテラスに出て食事をすることにした。
家で食事をすると、シンプルな素材を好きなように調理して、好きなだけ口にできるからいい。外食はどうも苦手だ。
日本から彼らにおみやげで持ってきたはずのインスタント味噌汁を拝借し(もう僕の日本食を恋しく思う気持ちは限界だった)、友人の母親が買ってくれた豆腐を入れた。パンには合わないが、僕の心は満たされた。

食後にコーヒーを飲む。ここのコーヒーは、どれもインスタントコーヒーとドリップコーヒーの中間くらいのものばかりだ。細かい粉状なのだが、完全には溶けない。こういう小さなところにも、カルチャーショックは確かに存在する。

 それから、ふと思い立って新しい物語の構想を練り始めた。週末に行った城をモチーフにした、姉妹の物語だ。一旦こういうモードに突入すると、僕はもう周りが見えなくなる。
 気が付くと午後四時だった。ノートには僕の下手くそな絵と、ミミズが這ったような文字が行列していた。きっとおもしろいものになる。その前に、今書いている分の書き直しを済ませてしまわねばならない。

 今日の夕食には、カリフラワーとじゃがいものポタージュを作ることにした。大量にあるじゃがいものうちいくつかは腐っていたし、玉ねぎはうずら卵みたいなものを一つしか見つけられなかった。僕は台所の掃除から始めねばならなかった。

 ポタージュを作っている最中、彼女の父親が帰宅した。ずいぶん早いお帰りだ。
 「今日は早いんですね」
 「うん、今日は家でパソコン仕事をしようと思ってさ」と彼は言った。

 彼女の両親は、それぞれどちらも会社を経営している。父親は車の修理工の会社、母親は女性の事務系の職業だと彼女が言っていた。そのためか、二人とも比較的自由にスケジュールを決められるらしい。もっとも、母親の方はかなり忙しいらしく、僕はまだほとんど彼女の母親とまともに話したことがない。

 「今から買い物に行くけれど、何か買ってきてほしいものはあるかい?」
 「じゃあよかったら、トマトとオレンジと、パンをいくらか買ってきてもらえますか?」
 「もちろん。30分以内には帰ってくるからね」
そして、僕は夕食の支度を終えると部屋に戻って本を読んでいた。

 「ーーー!」

きっかり30分後、彼の僕を呼ぶ声がした。どうやら買い物から帰ってきたらしい。
 慌てて下に降りると、そこにはテーブルに所狭しと並べられたパンやナッツ、甘いお菓子、トマトにきゅうり、マスカット、オレンジ、りんご、プラム、ネクターなんかが置いてあった。

 「うわぁ、すごい」僕は思わず日本語でつぶやいていた。
 彼らが果物好きなのは知っていたが、何しろ量が半端ではないのだ。全てがキロ単位だ。日本では僕は食費の殆どを果物に費やすくらいの果物好きだが、ここにいると僕さえも見劣りしてしまうくらいに思える。

リトアニアもそうだが、外国は果物が安いから羨ましい。日本の果物は、どうしてああも馬鹿みたいに高いんだ?いちいち袋に包まなくていいから、もっと安くして欲しい。
 「好きなだけ食べたらいい。いいね?これを見てくれ」

 そう言って彼が見せてくれたボウルの中には、角砂糖くらいの大きさをした丸い白の物体に、緑の葉が巻き付いている実のようなものが鈴なりについている植物が大量に入っていた。

 「これは何ですか?」初めて見る植物だった。

 「これはね、数時間前にまさに木から採られたばかりの新鮮な実さ。ナッツの一種だね。ご覧。ちょっと待てよ、たしかこの辺にオープナーがあるはずなんだが。ほら、あった」

 そう言って彼は、手で緑の葉を剥き、中から無垢な白の小石のようなものを取り出した。そして、ナッツオープナーという日本ではまずお目にかからない器具ででガリっといい音を響かせたかと思うと、小石の中から茶色い実が出てきた。

 「その茶色い皮をね、指で除けて食べるんだ。私が子どもの頃は、そのまま食べてしまったけれどね」

 僕は言われたとおりに茶色い皮に手をかけてみた。なるほど、それは渋皮のようで、手でいとも簡単にするすると剥けた。すると、生まれたての赤子のような、真っ白でつるつるとした碁石くらいの実が顔を出した。

 「食べてご覧。生のナッツだ。私たちはそれを、『地球のナッツ』と呼ぶ」
 剥きたての生のナッツを食べるなんて、初めてのことだった。口に入れると、思いの外それはフレッシュで、生のカリフラワーみたいな味がした。率直に言って感動的に美味しいというわけではなかったけれど、目の前にどんどんと剥かれていくナッツを、僕は機械的に食べ続けた。

 「やってみたらいい」彼は僕にオープナーを手渡した。
 見るからに固そうな白い殻は、オープナーを使うと力を入れずとも割れた。なるほど、そのクシャリ、だかパキリ、だかペキン、だかの何とも言えない殻の割れる感触は、癖になりそうだった。そうして僕は剥きたてのナッツを一人で大量に食した。

 部屋に戻って調べてみると、それはヘーゼルナッツだった。ヘーゼルナッツなんて、アイスクリームに入っているお情け程度のものしか食べたことがなかった。そもそもナッツがあんな見た目をしていて、あんな味がするということ自体が僕にとっては新鮮だった。

同時に、あまり嬉しくない情報も見つけてしまった。生のナッツは、酵素の抑制作用がなんたらかんたらで、最低でも一、二時間は水に浸けてから食べるのが好ましいようだった。けれど、彼女の父親はもう何十年も剥きたてのナッツを食し続けているのだ。僕は突如、胃に違和感を感じ始めた。

 彼女が帰ってきたのは、夜の七時を回っていた。相変わらずハードだ。僕たちはいつものように簡単な食事を済ませ、また出かけることにした。

 今日は彼女と彼女の父親と一緒に、湖へ出かけることにした。外は肌寒く、暖かいフリースがいるくらいの温度だった。にもかかわらず、彼女は湖で泳ぐつもりだと僕に告げた。僕は、一瞬自分の耳がおかしくなってしまったのかと思った。彼女はいたずらっ子のように嬉しそうに笑い、「あなたも泳ぎたい?そうでしょ?」なとど恐ろしいことを言ってきた。僕はどうにかこうにか彼女の提案を断ることに成功し、それでもまだ信じられない気持ちで彼女を見ていた。

 「2つの湖を知っているんだけど、今日は『緑の湖』に行こうと思うわ」
 「緑の湖だって?」僕は訊き返した。
 「ふふ。お楽しみに」彼女たちは、それ以上は教えてくれなかった。

 湖に到着すると、なるほどそれは『緑の湖』だった。背の高い木々に囲まれた湖は、濃い緑に染まっていた。午後八時の湖は、暮れゆく太陽を映して、キラキラと輝いていた。海と違って波のない湖は、完全なまでに地上の木々や雲、空を写しとっていた。もし世界がこのまま逆さまになったとしても、ここにいる限り僕はそれに気付くことはないかもしれないとさえ思った。

 彼女が湖で泳いでいる間、僕は湖を眺め、時おり写真を撮った。シャッターを押す時間さえ惜しいような、そんな美しい眺めだった。それでもこの風景を頭のなか以外の何らかの形でとどめておきたいと思ったのだ。
 そうして今日も、ささやかな夜の外出は無事に終了した。

ナッツ1

ナッツ2
ヘーゼルナッツ(たぶん)

リトアニアの果物
しあわせしあわせしあわせ

湖1
緑の湖

湖2
リトアには、美しい湖がたくさんあります。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その12 人生はもっと自由になる

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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