【引きこもりの北欧紀行】第四章その12 人生はもっと自由になる

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Lithuania Day 7
 真夜中。どうにも腹が減って仕方がなかった。そう言えば昨晩ナッツで胃が満たされたから、あまりちゃんと夕食を摂らなかった。それでもこんな時間に起きだすのはごめんだ。僕は空腹をこらえて、どうにか眠り込んだ。

 コンコン。気が付くと朝だった。彼女が出かける前の挨拶に来てくれたのだ。
 「もう仕事に行くから。あなたは休んでてね」そう言って彼女は出かけて行った。
 時刻はまだ七時にもなっていなかった。それでも、もう既に家の中には誰一人としていなかった。

 リトアニアの人は、もしかすると日本人よりもよほどたくさん働くのかもしれない。彼女の両親を見る限り、我々よりもよほど仕事を楽しんでいるふうだけれど。フィンランドにいた時とのあまりのギャップに、僕は戸惑い、どこか安心もしていた。

 待っていましたとばかりにしっかりと朝食を摂り、今日は僕も仕事をすることにした。こうしていると、やはり異国にいる感覚をすっかり忘れてしまう。検索エンジンにリトアニアにいることがバレてしまい、ログインをブロックされた時にようやく思い出したくらいだ。検索エンジンは、恐ろしい。

 ほとんど動いていないにも関わらず、昼食もやはりしっかりと摂った。昨日彼女の父親が買ってきてくれたパンが、僕の口に合った。木の実のたくさん入った栄養満点のパンは、僕にエネルギーをくれた。リトアニア生活を三日と少し残して、どうやら僕の胃はようやくリトアニアの食べ物に馴染んできたらしい。

 昼食の後もパソコンを広げていた。
 何気なく見た広告動画に僕はほとんど無意識のまま涙した。それから、いくつもいくつもそのような類の動画を見て、僕は涙を流し続けた。思えば、最後に涙を流したのはいつだろう。

 もうビジネスなんてたくさんだ、世の中にはいらないものが溢れている。嘘ものばかりの消費なんて、糞食らえだ!欲に任せ、だれもかれもが騙し、騙されている。

 そんな風に思っていたのは、そう遠い昔ではない。あるいは今も思っているはずだった。それでも僕は涙を流していた。頭のなかの何かを越えた、僕の中のいかんとも説明しがたい部分がそうさせていたのだろう。それは僕を多少なりとも驚かせ、狼狽させるには充分な量の涙だった。なにはともあれ、少しスッキリした。

 それからまた少し仕事をした。

 今日は午後六時半になっても誰も家に帰ってこなかった。本当に皆、忙しいのだ。僕は一人で簡単な夕食を摂った。彼女の飼っている猫だけが、ここでは僕の話し相手だ。とは言っても、本当に僕の話を理解して言葉を返してきたら怖いので、僕はまだ猫に声を掛けたことがない。
僕がこの家でただ一人の人間になってから、そろそろ十二時間が経とうとしている。

 僕は僕なりに一人の時間の過ごし方を身につけ始めていた。寂しく思うこともなく、ただ無駄に暇をつぶすこともなく、自分だけの完結した時間の中で生き甲斐ややり甲斐を見いだせるようになっていた。もちろんここが異国の地の非日常ということも手伝っているが。

この精神を獲得したことは、僕のこの旅で一番大きな収穫とも言えそうだった。誰と一緒にいたところで、そしてどこに所属して何をしていたところで、自分自身の中に生きていく芯みたいなものや愉しみを見つけていない状態では、人生は失うことへの恐れに満ちてしまう。
そしてそれは逆もまた然りなのだ。孤独を知り、孤独を克服したがゆえに、孤独を恐れることなく人は愛することができるのではなかろうか。

 僕は、日本に帰ったら食べ物のトラウマを克服するべく努力しようと思った。腹を壊し続けたトラウマから特定の食べ物を避けるのと、その恐怖を克服した後に健康のために敢えて選ばないのは、天と地ほどの差がある。「選べない」を「選ばない」に変えることで、僕の人生はもっと自由になる気がするのだ。

午後七時頃、立て続けに彼女の両親が帰宅した。二人とも、それぞれのビジネスを持っている。この大人たちは「知っている」方の人たちである気がする。体から出るオーラでなんとなくそれを感じる。
 彼女が帰ったのは七時半を大きく回っていた。本当にお疲れ様だ。僕は彼女が食事を済ませる間、書物の続きをしていた。

 今日はあいにくの雨模様だったから、家で彼女に手芸を教えてもらうことにした。彼女は絵も書けるし、手芸もできるのだ。

 彼女は僕のブックカバー、僕は彼女の教授のもと、ポケットティッシュカバーを縫い始めた。手芸なんて、小学生の家庭科以来だった。
 「普通のリトアニア人の24歳女性は、手芸なんてしないけどね」と彼女は言った。

 「いっぱいお酒を飲んだりとか、クラブで踊ったりとか、普通はそんなの」

 「僕も、日本人からは日本人っぽくないってよく言われるよ。僕自身は、海外に来る度に自分がいかに典型的な日本人かを痛感させられるけどね」

 「日本人の女の子は、いつもダイエットか恋愛の話だもんね。私、だからあまり日本人の女の子と仲良くなれなかった」

 「それは、僕がそういうのに全く関心がないということかい?」僕は苦笑しながら言った。

 「いいじゃない。お互い変だから、友達になれたわけだし。あら、もう疲れちゃったの?今日はできるまで眠らないわよ」と彼女は優しく僕を脅した。

 休憩がてらにフルーツを取りに降りると、彼女の両親がパソコンを広げて何やら話をしていた。
 「まだお仕事ですか?」と僕は心底頭が下がる思いで訊いた。
 「僕たちは二人ともビジネスを持ってるからね。議論したり、交渉したり、いろいろ話をするんだ」と彼女の父親は言った。

 色々な仕事があり、色々な夫婦の形があり、色々な人がいる。
 この日僕たちは、日付が変わるまで裁縫セットを広げてチクチクと縫い続けた。正直言って、僕は縫い物の魅力にどっぷりとはまってしまった。

魚
そう言えば、近くの公園を散歩した時にこの彫刻を見つけました。
実際にはそれは病院の敷地内だったのだけれど…

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その13 オーブンの主への複雑な想い

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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