【引きこもりの北欧紀行】第四章その13 オーブンの主への複雑な想い

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Lithuania Day 8
 今日も僕がこの家で最後に起きた。そろそろ本物のレイジーガールの称号を授かるべき時が来たのかもしれない。のろのろと起きだし、顔を洗い、歯を磨き、朝食を摂る。彼女の父親が買ってきてくれた、今回のパンは本当に傑作だ。ゴマとかぼちゃの種と、たぶん松の実。けしの実?実だったらなんだっていい気さえする。日本に帰ったらぜひ作ってみたい。

 今日は彼女がワインパーティーで帰ってこない。服を着替えるべきか少し悩んだが、一日中家にいるからといってずっと寝巻のままでいては、文字通り体がだんだんと腐っていってしまいそうだったので、何とか着替えることにする。

 今日の仕事は案外すぐに終わってしまった。ここにいては、やはりできることが限られる。
 お昼になる前に、書きかけていた物語の草稿がついに完成した。これからまだまだ手を加えなければいけないが、とりあえずでも思いの丈を詰め込んだ物語をひとつ完成させたことは、僕にとって大きな味方になってくれそうだった。

 簡単なエクササイズをして、シャワーを浴びる。さすがに二日も家を出ないとなると、体のあちこちが鈍ってくる。肩の凝り、腰の痛み、頭の靄がさっぱりと消えた。やはり何事も、深刻化する前に対処しておくのがよいのだ。

 昼食の準備をしにキッチンに行くと、固くなってしまったパンが淋しげに横たわっていた。一週間前にはふわふわで元気いっぱいだったこいつの寿命は、とうに尽きていた。ここの家族は、本当にキッチン周りの様々なことを忘れてしまうらしい。この固くなったパンでラスクを作ろう。そう思い立ち、バターと砂糖とシナモンでペーストを作る。石化したパンを何とか切り分け、食べられるサイズにする。オーブンを予熱するために扉を開け、天板を取り出す。

 ここまでは僕の予想通りの理想的な手順を踏んでいた。ところが、オーブンの中で僕を待ち構えていたものは、そこにあるはずのないものだった。長さは悠に50cmを超え、その重さも相当だ。何より、生きていた頃の生々しい姿を残したその主は、僕に様々な二字熟語を想起させた。

同情、恐怖、嫌悪、悲哀、怪訝、諦念、真理。

 それは、艶かしく光る黒い皮をまとった、白身の魚だった。
生ではなさそうだったが、確実にすぐ隣りの冷蔵庫にいるべき存在だった。腐っているような匂いはしなかったが、これが近いうちに食べられる代物になるのかどうか、僕にはさっぱり検討もつかなかった。まるで魂の残り香が漂ってくるようなすさまじさがそこにはあった。

 とにかくその重い天板を取り出し、テーブルに置いた。そして何事もなかったかのように、僕はオーブンを予熱し、ラスクを焼いた。
 昼食を終える頃にオーブンがしっかりと冷めていることを確認し、僕はそっと例の主をオーブンの中に押し込めた。誰かの家にステイするということは、こういうことだ。
ここには確実に、僕が踏み入れてはいけない領域というものが多数存在する。僕にできることといえば、できるだけそこから目を逸らしながら、僕なりの生活を満喫することにある。

 それから僕は、早速次の作品に取り掛かることにした。もちろん手芸の話だ。曲がりなりにも作品が出来上がることの愉しさに、すでに僕は味をしめはじめていた。彼女の好意で、彼女の裁縫セットを借りられることになった。いつもは二人で座ってドラマを見るソファーセットに、今日は一人で裁縫セットを広げて座る。

 それから、簡単な夕食を摂る間の二、三十分を除いて、なんと8時間もそこに座り続けていた。
昔からジクソーパズルをやり始めるとごはんを食べるのも忘れてしまうくらい、一度集中し始めると戻って来られなくなる質なのだ。完璧主義も手伝って、途中で切り上げるのが気持ち悪くてしょうがない。ごはんを食べるのを思い出した分、僕は僕の成長を感じた。

 そうして午後11時。縦と横の長さがあべこべになってしまったお弁当袋と、レースの付いた気の利いたポーチが出来上がった。すべてリトアニア産の良質なリネンで作ってあるから、おみやげだと言って誰かに渡そうか。
全部手縫いで作ったものだから、多少のぎこちなさは残るものの、僕はポーチの方の出来には相当に満足していた。

 リトアニアに旅行に来て、日がな一日家にこもって手芸をし続けた日本人は、ひょっとしたら僕が初めてかもしれない。そう思うと、なんだか誇らしくさえあった。引きこもりの日本人旅行者として、家の中から見える海外の素顔を描写しながら、僕はうんうんと頷いた。

 当然の如く肩と腰はひどく痛み、まるで帰りの飛行機の予行演習をしたみたいだった。僕が彼女の部屋を引き揚げてベッドに潜り込んだすぐ後に彼女も帰宅したようだったが、もう僕には彼女を迎えてハグを交わす元気は残っていなかった。

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その14 セロリ抜きでお願いします

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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