【引きこもりの北欧紀行】第五章その2 ワタナベサラダのこと

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Second Finland Day 1
 日本にいても、リトアニアにいても、フィンランドにいても、僕が真夜中に何度も目覚めてしまう習慣は変わらないようだった。この日僕は、ついに真っ暗闇の中で違う部屋に迷いこんでしまった。

 あの部屋は一体どの部屋だったのだろう。誰かがその中で眠っていたのだろうか。
それとも束の間、僕は異世界の宇宙に足を踏み入れていたのだろうか。今となっては確認のしようもない。
やっとのことで自分の部屋を見つけ出した時には、焦りと恐れと混乱ですっかり目が覚めてしまった。

僕はこのところ、本当の意味での深い眠りは獲得できていないのだと思う。その分長い間眠っているから、特に問題はないのだが。

 七時半に起きてから、午前の時間はデスクワークに費やした。その間朝ごはんを食べ、上質なはちみつ入りの紅茶を飲み、弟と友人とつたない英語で会話を楽しんだ。

 「夢の中にいるみたいだ」と弟は言った。
 「フィンランドでは、時間がゆっくりと流れている。こんな暮らし、いいなぁ」

 「君が選ぶんだよ。どんな人生を送りたいか、何が自分にとって一番大切か、それは自分で決めて選んでいけることなんだ。日本人であることを言い訳にはできないよ。忙しいのは、君がそれを選んでいるからなんだ」僕は諭すつもりで言った。

 「その通り。フィンランドにも忙しい人はたくさんいるわ。特に子どもがいて共働きの家庭なんかは、すっごく忙しいもの。私はこういうゆったりとした暮らしが性に合っているけどね」

 僕と友人は、弟の最初の海外旅行を、安全で楽しいものにすると同時に、彼に僕らなりの人生のヒントのようなものを教えようとしていた。
末っ子という立場は、そういう意味でお得な気もする。

ただし、果たして弟が僕たちの英語をどの程度理解したかは僕の知るところではないが。少なくとも彼は、相手の言っていることがよくわからない時に典型的な日本人が取る態度である、「なんとなく頷く」という手法を取っていたのだ。
まあいい。彼の人生はまだまだこれからなのだ。

 正午を少し回った頃、僕たちは買い物に出かけた。
後から振り返ると、このスケジューリングは完全に見誤りであったと言わざるをえない。まず僕たちは、近所のスーパーマーケットへ野菜や乳製品などを買いに出かけた。
キロ単位で量り売りをするこちらのスーパーマーケットももう慣れたものだ。
チーズが大好きな弟は、この国のチーズの種類の多さと美味しさに毎日のように感動しているようだった。

 それから僕たちは車で二十分ほどの街へ出かけ、彼女の夫が銀行に行く間に本屋に立ち寄った。残念ながら英語の本を見つけることはできなかったため、僕たちは近くのショッピングセンターへ向かった。この時点ですでに時刻は二時前。僕たちは皆、腹を空かせていた。

 「ねえ、何か見たいものがある?」

 「もう買い物はいいかな」

 「じゃあ何か飲みましょう。そこにカフェがあるから」

 当然の成り行きとして、僕たちは何か食べるものも取ることににした。弟には、ここフィンランドで初めてとなるシナモンロールを。僕と彼女は甘い甘いマカロンを。そしてお決まりの巨大なカフェラテも。

 そうこうしていると、彼女の夫がやってきた。彼女は何度も夫に連絡を取ろうとしていたのだが、なんと彼の方は携帯を忘れてきてしまったらしい。

 「ああ!ここにいたのか!銀行の方は十分もかからなかったんだけど、君たちを探してこの辺りの店を片っ端からあたってたんだ」

 「もう、まったく。彼ってばいつもこうなの。何もかもを気にしなさすぎるのよ。ここで偶然会えたのは、私たちラッキーだったわ」

 なんだかんだで彼女たちはすごく仲がいい。僕たちは彼が高速でサンドイッチを飲み込むのを見届けてから、次の場所へと向かった。

 フィンランドの景色は僕がリトアニアに行く前と随分変わっていた。

背高く育った小麦はきれいに刈り取られ、そこら中に秋の匂いが立ち込めていた。この国の夏は短い。人びとはすでに、冬の準備を始めている。僕は二年前にここで過ごした厳しい冬のことをぼんやりと思い出していた。

 その時、僕はひどく気分が悪くなっていた。大きなカフェラテと長く荒い運転のおかげで、僕の胃はぐちゃぐちゃにかき混ぜられていたのだ。ついに最後の店に辿り着いた時、その匂いにほとんど僕は吐きそうになった。

 そこは魚屋だった。大きな魚がところ狭しと並び、冷凍庫には軟体動物が詰め込まれていた。
僕たちはエビとイカを買った。
そして、彼らは僕と弟の好物であるワカメサラダも買ってくれた(彼女の夫は、それをワタナベサラダと呼んでいた)。

この店のワカメサラダは、抜群に美味しい。僕は日本でほとんどワカメなんて食べないけれど、このサラダは毎日のように食べている。ワカメというより、昆布の中華サラダといったところだろうか。

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【引きこもりの北欧紀行】第五章その3 テンプラの達人

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
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