【引きこもりの北欧紀行】第五章その3 テンプラの達人

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【引きこもりの北欧紀行】第三章その1 フィンランド 第二の故郷
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【引きこもりの北欧紀行】第五章その1 フィンランド 日本での家族とここでの家族

 やっとのことで家に帰り着いたのは、15時を悠に回っていた。僕は休憩することも考えたが、今晩の夕食担当になっていることを考慮して、先にデスクワークを済ませてしまうことにした。未だに僕は、「何もしない時間」を落ち着いた気持ちで過ごす能力を身につけられないでいる。

 ここからが今日の本番だ。
今晩僕は、彼らに天ぷらを作ることになっている。

実を言うと、僕は揚げ物を作るのがかなり苦手だ。
揚げ物の達人である妹に、日本にいる間にコツを聞き出し、なんとかこちらで天ぷらを成功させようと鼻息を荒くしていた。彼らが機能的なフライヤーを持っていたことは、僕にとってかなり幸運だった。
これで少なくとも、僕は温度の心配をしなくて済む。

 弟に手伝ってもらいながらも、じゃがいも、玉ねぎ、しいたけ、いんげん、エビ、イカを次々と揚げていった。
その間彼女はご飯を炊き、サラダを作ってくれた。大量の揚げ物を全て揚げ終えた時、調理を始めてからすでに二時間が経っていた。
先に食べ始めていた彼女たちは、少なくとも僕の見る限り天ぷらに満足してくれているようだった。

 「日本のレストランよりうまい。最高だ。箸が止まらない」

 「テンドン! 夢にまで見てたの。美味しすぎる。全部食べられちゃいそう。ねえ、ここに住んでくれない? 私たちあなたを雇いたいわ」

 僕が席に着いた時、天ぷらの異常な減り方に、僕は驚いたし、かなり嬉しくもあった。これで僕は少なくとも一つの苦手を克服したことになる。

 僕も席に着き、久しぶりの天ぷらを口にした。自分で作ったものを人前で食べるのは、どうも照れくさくて苦手なのだけれど、なんとか合格点はもらえたのではないかと思う。そう願いたい。

僕の胃はかなり繊細で、揚げ物を食べ過ぎるとすぐに腹を下してしまう。
だから僕は、揚げ物はほどほどにし、サラダとご飯とパンを食べた。

ご飯とパン。

不思議な気持ちだった。彼らが日本の空港で買ったという日本酒で気分が高揚していた僕は、思い切って様々な種類のチーズにもトライしてみることにした。
留学時の苦い経験から、僕は北欧のチーズにもトラウマを持っていた。それでも、僕はここに来て自分が色々なことを克服し始めている実感があったし、広い意味で強くなりつつあるような気もしていた。

 いつも食べるクリームチーズとは違って、固形のチーズはやはり濃かったけれど、美味かった。
ここのチーズを食べると、日本のチーズはただの味気ない塊みたいに思えてしまう。
彼女は「日本のチーズはゴムの味がする」とまで言っていた。それぞれの国にはそれぞれの食文化がある。ただそれだけの話だ。

 その後、僕たちは恒例の写真ショーを開催した。
彼女のカメラから見たパリ、ロンドンは、僕の憶えているそれらとは随分違って見えた。

僕が妹とパリ、ロンドンに旅行したのは二年前の二月のこと。今回彼女たちは、夏のほとんどオンシーズンに行ったのだ。
日は長く、天気は良く、気が触れたみたいに混雑していた。

気の毒な友人Vは、腹を空かせて帰って来たにも関わらず、まず写真ショーに参加せねばならなかった。
彼女と僕の弟は、一日の間に驚くほどたくさんの場所を訪れていた。恐らく僕と妹が三日かけて行ったところを、ほとんど一日で回ってしまっているみたいだった。これがインドア人間とアウトドア人間の差なのだろう。

 僕が彼女たちの倍の期間かけて撮ったリトアニアからの写真は、恐らく彼らの1/3にも満たない数だった。

それでも僕は僕のリトアニア滞在にかなり満足していた。一つ一つ思い出を噛み締めながら写真を繰っていき、いかにリトアニアが独特の食文化を持っているか、そして美しい城や自然を内包しているかを語った。
最後にはリネンで作った作品も見せた。

 それぞれが自由にそれぞれの時間を楽しみ、またひとつの場所に戻ってきているというこの感覚が、僕はたまらなく好きだった。ここは僕の、もうひとつの家だった。

 束の間のショーを終えてしまうと、ちょうどサウナが温まったところだった。友人Vは天丼をいたく気に入り、おかわりまでしてくれた。僕は彼女と一緒にサウナへと向かった。

 コンタクトレンズもなく、文字通り裸になった僕らは、ここで様々な話をする。

女同士だからできる話、僕の人生の話、家族の話。大概は真面目な顔をしてする話だ。

いつも冗談を言い合っている僕たちにとって、こういう時間は結構大事だったりする。彼女がサウナを出てからの数分間、僕は一日のうちで一番濃い思考の時間を過ごす。ここにいると、色々なことを深く考え、次の行動を決めることができる。
 すでにほとんどのエネルギーを使い果たしていた僕は、それから少し本を読んで眠った。

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【引きこもりの北欧紀行】第五章その4 うどん。そして異国の姉弟関係

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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