【引きこもりの北欧紀行】第五章その5 フォークの地下鉄

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【引きこもりの北欧紀行】第五章その1 フィンランド 日本での家族とここでの家族

Second Finland Day3
 海外にいると、やたらと眠くなるのは僕だけだろうか。インドア人間にとっては時間の余裕がありすぎるからだろうか。
それでも弟の睡眠の深さに比べると僕なんてまだまだ序の口だ。
僕が起こしてやらなかったら、きっと彼は毎日でも寝坊しているだろう。

 今日はパンがなかったから、ヨーグルトと果物とミューズリーの朝食を摂った。
毎朝淹れたてのコーヒーが飲める贅沢も、一時間もかけて朝ごはんの時間を慈しむことも、もうすぐ終わってしまう。

何もかもに終わりがあるからこそ、人は愛や満足を大切にすることができるし、絶望の淵に光を見出すこともできるのだ。人生にすら終わりがある。全然実感ないけれど。

 十時を少し過ぎた頃、僕たちは家を出た。彼女の車でPorvooという近くの街まで行き、そこで昨日会った彼女の友達、ハンナと合流した。
ハンナさんは、グラフィックデザイナー兼Webデザイナーだそうで、著名な作家の表紙デザインを手がけた経験もあるそうだ。
今朝、僕の友人に彼女のウェブサイトを見せてもらったが、かなり洗練されたムダのないデザインかつ独特の雰囲気で、とても才能を感じた。

 「凄い才能ですね。僕が言うのもなんですが」と車の中で僕は彼女に話しかけた。

 「あら、ありがとう。まぁ、仕事にするのはなかなか難しいんだけどね。競争が激しいから」と彼女は言った。

 アーティストというのは、金銭的な意味ではやはりどこでも苦労するのだ。それでも、作品を生み出し続けずにはいられないから、アーティストなのだろうが。
それにしても、アーティストや職人というのは比較的気難しい人が多いにもかからず、彼女はとても人当たりがよく付き合いやすいタイプの人だった。

 僕はアーティストでもないのに、人も、食べ物も、スケジューリングでさえ、ひどく好き嫌いをする。
表面上うまく取り繕うことはできるのだが、やたらと精神に負担がかかる。
そういった面で、彼女のような大らかでやわらかな印象を持ったタイプの人は、僕の心を安定させる。

僕は、日本にいる妹を恋しく思った。ここに来て唯一恋しく思ったのは、現時点で日本の調味料と、僕の本だらけの部屋と妹だけだ。
そのくらい、今回の旅は僕にフィットしていた。

それでも僕は、来週日本に帰ることをそれなりにきちんと受け入れ始めていた。

僕の新しい生活。

最後のモラトリアム。
それは前向きなオレンジの光でもって、僕の心に深く沈み込もうとしていた。

 ヘルシンキの中心はひどく駐車料金が高く、また混雑した道のため、僕たちはヘルシンキの近くまで車で行き、それから地下鉄に乗ることにした。
フィンランドで唯一の地下鉄だというそれは、路線は一本しかなく、端から端まで三十分もかからない短いものだった。最後の数駅だけが枝分かれしており、先が二本のフォークのようになっている。
このために、間違った方向の電車に乗らないように、フィンランドの人々は十分に気をつけなければならないということだった。

彼らが、蜘蛛の巣のように張り巡らされた日本の地下鉄の路線図を見たら、きっとそれが地下鉄の路線図だということにさえ気づかないのではないかと思った。

 「面白いでしょ?」日本に何度も来たことのある彼女は、そう言った。

 「地下鉄を作るのはすごくお金がかかるから。私たちは国中で500万人しかいないし、そんなに使う人もいないしね。けれどおかげで、私たちはみんな車を持たなくちゃならないし、働く場所が全部ヘルシンキに集中してしまっているの。農家や経営者でもない限り、毎日のように皆ここに来なくちゃならないの」

 なるほど、物事には様々な見方があり、それによって良いようにも悪いようにも見えるのだ。とにかく、そのフォークのような路線図とオレンジ一色に染められた車内は、僕にとって何かの啓示みたいにチカチカと主張していた。

 ハンナさんのガイドのもと、僕たちはある駅に降り立った。僕の弟は早くも腹を空かせており、朝早くに朝食を済ませてしまっていた僕の友人も同様のようだった。時計を見ると、すでに正午前だった。

 僕たちは近くのスーパーで小さなパンを買い、分けあって虫養いをした。

フィンランドの地下鉄
地下鉄の路線図。
これがフィンランドにある唯一の地下鉄です。

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ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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