【引きこもりの北欧紀行】第五章その6 ムーミンの産みの親

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 「フィンランド」といえば何を想像するだろうか。

 幻想的なオーロラ、それとも本物のサンタクロース? 甘く香ばしいシナモンロールや、サーモンのミルクスープだって魅力的だ。

近年日本人の間でブームになっている、あのキャラクターを思い出す人も多いのではないか。そう、ムーミンだ。

 今年はムーミンの生みの親であるトーベ・ヤンソンの生誕100周年を記念して、世界中で展覧会が行われている。
彼女は13年前にすでに亡くなっているが、その作品は今でも世界中の人びとに愛されている。
彼女の生まれた国であるフィンランドの首都、ヘルシンキで開かれる展覧会は、その中でも最も大規模なものの一つであるに違いなかった。

 ムーミン好きな僕は、今回のフィンランド滞在でこの展覧会に行くことをかなり楽しみにしていた。
もっとも、僕と彼女はこの時かなりトイレを必要としており、美術館に着くやいなや感傷に浸る間もなく、二人ともすぐさまトイレへ駆け込んだ。
ルーブル美術館とは行かないまでも美術館はそれなりに混雑しており、僕と彼女は結構な時間をトイレの前で過ごさねばならなかった。

 「だから嫌なのよ。女はいつも長い列に並ばなくちゃいけない。見てよ、あの男性用のトイレ。まるで誰もいないみたいだわ」
それから、僕と彼女は家路につくまで何度となく女性でいることの利点や不便さを議論し合った。

 無事チケットを手に入れ、僕たちは意気揚々と会場へ向かった。大きな美術館の二階部分が全て彼女の作品で埋めつくされていた。そこには、一人の芸術家の人生があった。

 トーベ・ヤンソンは1914年に芸術一家の娘として生まれ、小さい頃から恵まれた環境でのびのびと才能を育んでいったそうだ。それでも戦争を経験し、スウェーデンやロシアによる影響もあり、芸術家としてそれなりの苦労もあったという。
そんな彼女の作品には、彼女だけの世界が広がっていた。彼女はもともと絵を描くことを主にしており、初期の作品にはあまりムーミンの姿はなかった。ヨーロッパの風景、親友の肖像画、彼女の頭のなかにあるユートピアなんかがキャンバスに広がっていた。
恋人たちとの共作も多数あった。

 それから彼女は、大人を対象にしたムーミンの話を書き始めた。日本語に訳されているだけでも、かなり深く考えさせられるような台詞が多い。
それでも、その人生観に満ちたキャラクターの台詞に注目が集まるのは後のことで、当時はその愛らしいキャラクターたちが子供たちの間で大きな流行となった。

 そしてそれは、彼女の意向とは大きく違っていた。

しばしば、芸術家の身にはこのような事態が降りかかる。彼らは彼らの世界を表現することだけで満足することができるし、それでなんとか食べていけさえすればいいと思っていることが多い。そして、そんな彼らの願いとは裏腹に、彼らの作品を声高く評価し、うまくビジネスの軌道に乗せようとする人びとがその周りを取り囲む。それは時に彼らの芸術的自尊心を高めるのに役立ち、時に時間や才能を奪っていく。

 そうして彼女は晩年の日々を絵画に集中するため、ムーミンのコミックを書き続けることをやめた。
彼女が選択をできたことは、彼女にとって幸運であったと思う。
それでも、その一生を通して生み出された数えきれないほどの作品に、今世界中の人びとが感嘆の息を漏らしている。
彼女の作品は、本当にどれも美しかった。

 彼女の作品の中には、壁画も存在する。ムーミンの絵や模型が並ぶ展示室の壁に、大きな壁画が三枚並んでいた。
それは田舎の宴会をモチーフにしたもので、幸せそうな人びとが愛を語らい、美味しい食事とワインを囲んでいる様子だった。

 正直言って僕は世界史の知識は皆無に等しかったし、ムーミン以外の絵にはあまり興味が持てなかったため、失礼ながらその壁画の前も軽い気持ちで通り過ぎようとした。
その時、その壁画の左下に描かれた草の茂みに、こっそりと佇みながらこちらを見つめるムーミンを発見した。
一体ぜんたい、この大勢の人の中で、これに気づいた人がどれほどいるだろう! そう思うと、僕は秘密の暗号を見つけた子どものような気持ちになって、かなり興奮した。
残念ながらそのとき僕は一人だったため、そのこぼれる笑みを抑えるのにかなり苦労した。

 その展覧会は、本当に行くに値するものだった。僕にとっては、ルーブルよりもよっぽど満足の行くものだった。
なにかとルーブル美術館を例にあげて申し訳ないが、もちろんルーブル美術館だって博学の人にとっては素晴らしい歴史の重みを感じられる場所なのだと思う。
けれど、僕個人にとっては、この土地で生まれ育ったトーベ・ヤンソンという一人の女性の人生をかけた作品の世界がより魅力的だったのだ。

 展覧会の出口で友人たちと合流した時、すでに午後二時を回っていた。友人やハンナさんも皆興奮冷めやらぬ様子で、僕たちはそのまま売店へ行き記念の品を購入した。またもやパズルを買ってしまった。

ムーミンパズル
帰国後完成させたパズルです。
パズル大好き。

アテネウム美術館
アテネウム美術館(Ateneum Art Museum)で開催されていました。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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