【引きこもりの北欧紀行】第五章その8 キモノ、きもの、着物。

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Second Finland Day 4
 今日はできるだけ遅くまでベッドの中にいようと決めていた。

九時過ぎに弟と彼女はフリーマーケットに買い物に出かけ、僕と彼女の夫は揃って朝食を摂った。
僕たちは二人だけの時、あまり冗談を言い合わない。ツッコんだり、笑ってくれたりする人がいないからだ。そうして僕たちは、世界のニュースや僕らの生活について、真面目で他愛無い話をしていた。

 「彼女は本当に買い物が好きなんだね」

 「そうなんだよ。もう少し家のものが少なかったら、もう少し暮らしやすいんじゃないかと思ったりするんだけれどね。けれど、彼女が何かしら好きなことを持っているというのはいいことだ。それに、彼女はそれほど高いものを欲しがらない。セカンドハンドショップで大抵のものは揃えてくる。だから、いいんだ」
 彼は彼女が大好きなのだ。

 そうこうしているうちに、彼女と弟が帰ってきた。
 弟は、景気のいい合成皮革のジャケットを手に入れたと、随分喜んでいた。そして彼女は案の定、抱えきれないくらいの服とカバンを持って帰ってきた。その半分くらいは、弟が代わりに持っていたと思う。

 「彼ったら、本当にたくさんのものを買うんだもの。びっくりしちゃう」

 「そうだね。僕の弟は、女ものを集めることに目覚めたのかもしれない」
そう言って僕らはひとしきり笑いあった。

 それほど腹は減っていなかったが、僕たちは一緒に昼食を摂った。

ここでちょっとしたことがあった。
昨日の豆のスープは、肉を食べない僕と彼女用の肉なしバージョンと、肉を食べる男性陣用のベーコン入りバージョンがあったのだが、肉なしバージョンはもう残っていなかった。
弟が多いというので、僕はベーコン入りスープを少しいただくことにした。

この何でもないことが、僕にとってはほとんど革命的な事態だった。

スウェーデンへの留学から帰ってからというもの、僕はことごとく肉を避けていた。
特に海外旅行をする時は、徹底的に肉と名のつくものを避け続けていたのだ。

しかしこの時、僕はなんとなく「もういいかな」と思ったのだ。
それは、決して断崖絶壁から飛び降りるような感じではなかった。
ずっと鍵を閉めたままだったクローゼットから、冬の支度をするためにコートを取り出すような自然な感じでそれは訪れた。
僕は素直にそれを祝福することにした。

 それから彼女は、夕飯のミートローフに取り掛かった。弟が来てからというもの、ここの食卓には肉が並ぶようになった。今晩はかなり豪華な夕飯になりそうだった。何と言っても、今日は華の金曜日だ。

 午後二時を回った頃、昼寝から覚めてきた平和な弟にマッシュポテトを託し、僕と彼女は別のことに取り掛かった。
今日は、彼女が日本の友人にもらったという着物の着付けにトライする予定にしていた。
僕は正直言って、かなり緊張していた。何しろ、浴衣の着付けでさえままならないのだ。

それでも、何とか簡単そうな着物の着付けを解説したサイトを見つけ出したし、帯はもともと結んであるタイプのものだから、何とかなりそうだった。
まずは彼女の髪を束ね、それから名前もわからない着物の道具を順番に品定めしていった。
彼女は着物で歩きまわるわけではないし、半時間も持ってくれればそれでいいのだ。
僕は僕自身を励まし、着付けに取り掛かった。そして、それは思いのほか簡単に運んだ。

彼女の背丈は高すぎて、おはしょりは作れなかったし、いくつか余ってしまった道具があったけれど、彼女の見た目はほとんど完璧なまでに仕上がった。
彼女は大いに喜び、何枚も何枚も、飽きるほど写真を撮った。
ついには僕と弟まで一緒に写真に映ることになり、まだ寝巻のままだった僕は、彼女の服を借りてちょっとだけおめかしをした。

 僕たちが着物に取り掛かっている間、彼女の夫と僕の弟は、ああでもないこうでもないといいながらマッシュポテトを作っていた。ミルクが足りないだのバターがどうだの、男二人してかなり苦戦しながら作っていたようだ。
マッシュポテトひとつに何をそんなに議論しているんだというくらい、”I don’t know”を連発していた彼らに、彼女はしばしば中途半端な着物のまま、助け舟を出しに行かねばならなかった。

 それでも彼らのおかげで、僕たちは着物タイムの後にすぐに夕食にありつけた。
まだ時刻は16:30だったし、全然お腹は空いていなかったが、彼らは食べられる時にいつでも食べるのだ。
それは、なにもかもを綿密なスケジュールに組み込むことに比べたら、ずっと素敵なことに思えた。

僕は野菜の煮込みと、サーモンみたいな赤身の魚、マッシュポテトとパンを食べた。それと、日本のよりもずっと美味しいワカメサラダもたくさん。

 すっかり満腹になった僕は、運動がてら彼らの飼い犬であるルルの散歩に着いて行った。
前に来た時は完全に白に覆われていた道路は、今は全く違って見えた。

僕と彼女は二人になると、やけに真面目な話をする。海外にいるほうが日本の中の危険な情報を得やすいというのは、結構僕にとっては驚きだった。
日本にいるといかに視野が狭くなってしまうかを、ここにいるとつくづくと実感させられる。そして、ここの土地柄ロシアとの関係はかなり緊張状態にあるようだ。

 そうして家に着いた僕たちは、まだ時刻が夕方の六時前であることに気がついた。

 「ねえ、今夜は何をする?」彼女が嬉しそうに聞いてきた。

 「何でも。君の思うままに」と僕は答えた。今日は外に出ていなかったから、わりと元気なのだ。

 「じゃ、映画を見ましょう」と彼女は提案してくれた。
そう言えば、冬に来た時は毎日のように映画を見ていたにも関わらず、今回はここに来てまだ一度も映画を見ていない。
夏の北欧は、日が出ている間にすることが多すぎるのだ。

 その映画は、僕が以前一度見たことがある映画だった。かなり特異な世界観を持った映画で、当時の僕は全く理解することができなかった。
そのため、それを見たことがあるということに気付くまでかなりストーリーを追いかけねばならなかった。結局、完全にその世界観を理解するには至らなかったが、僕はそういう一見、意味不明な世界観が好物だ。もう一回くらい見れば、ある程度は理解できるようになるだろうか。

 その映画を見終わった頃、ちょうど友人Vが帰ってきた。今日は彼の職場の近くで大きなイベントがあり、その関係で彼も遅くまで働かねばならなかったのだという。

 「ねえ、私たちは何を食べる?」という彼女のひとことで、彼の夕食とともに僕たちのパーティーが始まった。

 それからのことは正直言って、あまり記憶が無い。やたらと饒舌になって冗談を飛ばしまくったことと、少なく見積もってもワインをグラス並々三杯は飲んだことはなんとか憶えている。

とにかく楽しい、大人の時間だった。弟の初めての海外旅行への感想、そして彼の将来の展望などを聞いた部分なんかは、その中でもかなり興味深いものだった。普段、僕らは家で顔を合わせることすらままならないくらい、すれ違いが多いのだ。

 パーティーが終わったのは、夜の零時を悠に回っていたと思う。
ここに来て初めて羽目を外した僕たちは、皆大いに笑ってほうれい線にシワがくっきり刻み込まれていた。

ほうれい線のシワは、幸せの結晶だと思う。
マダムたちは、何も無理してほうれい線のシワを取り去ることに躍起にならなくてもいいのに、と僕個人としてはそう思う。

誰もが赤い目をして、それぞれの布団に向かった。友人Vだけは、かなり遅くまで電気を点けて彼自身の思考の波に身を埋めていた。それともあれは、僕の夢の中の出来事だったのだろうか。

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【引きこもりの北欧紀行】第五章その9 世界一長い机の寂寥

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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