【引きこもりの北欧紀行】第五章その10 遠くにいる妹

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【引きこもりの北欧紀行】第四章その1 リトアニア 学生時代への回帰とそれぞれの成長
【引きこもりの北欧紀行】第五章その1 フィンランド 日本での家族とここでの家族

Second Finland Day 6
 目を覚ました時、僕の喉は痛みを伴っていた。鼻はズルズルと何かをせがむように主張を続けていたが、熱はなかった。それに、僕は今日も明日も予定がないのだ。これ以上悪くなるわけがなかった。

 食欲が出るまで、僕は彼女のスイスと中国への旅行写真を見せてもらった。彼女は長い間体調が悪く、なかなか旅行にも行けないことがあったらしい。今の彼女が旅行を異常なまでに好むわけがわかった気がした。それに読書が好きで、かつ買い物やランニングが好きだという、インドアとアウトドアの特性が混在しているわけも。

 朝食を摂った後、僕は少しだけ仕事をした。ボスのわかりにくい業務連絡の仕方と、日本に帰ると待ちうけている大量の仕事のことを考えると、僕は少しだけナーバスになった。

 そうなると決まって僕は彼女のところへ行き、励ましを受ける。彼女はここで僕が唯一心を開いている人だった。

 「じゃあ、ランチにしましょう」僕にあまり深い思考をさせないためか、彼女は昼食の準備をし始めた。
僕はつい一時間前に朝食を摂ったばかりだったが、彼女の気持ちが嬉しくて、努めて高栄養そうなものをたくさん食べた。
茶色くて硬いパンは、健康に良い代わりに顎にパンチのある歯ごたえだった。
それでも、美味しいパンとチーズやヨーグルト、新鮮な野菜や果物で事足りるフィンランドの素朴で優しい食事が好きだった。

 今日も彼女の髪を仕立てる役目を仰せつかった。今晩から、彼女は僕の弟と二晩のフェリークルーズへ出掛ける。
行き先はストックホルムだ。頼りない弟を心配し、着いて行ってくれることになったのだ。

パリとロンドンでの旅や、フィンランドに帰ってきてからの生活で、彼女は弟の危機意識の甘さや英語の未熟さ、純粋で無垢な日本人的少年の気質を感じ取っていた。
それでも僕たちは、本当にただ弟に色々なものを見せたかった。
スウェーデンのお菓子ランキングサイトなどを見ながら、お土産の計画などを話し合った。
僕と彼女は近くのスーパーマーケットに出向き、明日からの生活に備えて僕の栄養源であるパンやミューズリーをたくさん買い込んだ。

 皆が出発する一時間前、日本の午後九時頃に僕は唐突に妹に電話を掛けた。これから数時間一人になることに寂しさを覚えたのと、彼女が単に恋しくなったのだ。

 日本に戻った時の計画や、弟への愚痴や、何でもない日常のあれこれを共有し、僕は日本に戻ることへの気持ちを高めようとした。
彼女と弟をフェリー乗り場へ送るために皆が車で出てしまうと、僕は一人ぼっちになった。

正確には、彼らの犬と二人だ。

僕は再び妹に電話を掛け、パンを片手にとにかく何かを吐き出し続けた。それは僕の一ヶ月と少しの旅で出てきた、垢のようなものだったのかもしれない。

 午後六時頃にシャワーを浴びると、彼女の夫と友人Vが思ったよりもずっと早く帰ってきていた。
僕は予定が変わるのが苦手だったが、これで少なくとも一人ではなくなることに嬉しさも感じ、彼らとともに夕食を摂った。

男二人と女一人。

何だか奇妙な取り合わせだったが、僕たちはお互いにすっかり慣れていたため、特に互いに干渉することもなく各々の食事を続けた。

健康志向の強いVが作った「海藻パウダーと生卵入り」のスムージーも味見させてもらったが、それは魔女が鍋でぐつぐつやっている風の見た目だったし、実際味の方も似たようなものだった。
魔女が鍋で何をぐつぐつやっているのかは、僕の想像の域を超えないけれど。僕らは随分笑いあった。それでも彼女がいないというのは、僕にとって何かしら心細いことだった。

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【引きこもりの北欧紀行】第五章その11 留守を守る男たちと、小さな蛸

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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