【引きこもりの北欧紀行】第五章その12 友人Vの思いつき

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 その後、僕たちは半分冗談、半分本気でフィンランドの家探しを始めた。
なるほど、それは日本とは比べ物にならないくらい安かった。
平均的な価格で言えば、日本の10分1のくらいだったと思う。いや、大きさを考慮すればもっと安いか。日本とほとんど同じ大きさの国土に、人口500万人しか暮らしていないのだ。理屈としては頷ける。

 「これはちょっと遠いな……これはトイレとサウナが汚いが、まぁ直せば済む話だ。この壁の色は気に入らないが、まぁ妻が塗り直すだろう」

 ここでは、大抵のことは自分でしてしまうのだ。なんとマルチタレントなことだろう。僕は自分のできることの少なさに涙が出そうになった。
 あまりにも検索ヒット数が多すぎたので、僕たちは地域を絞り込むことにした。

 「ここに住む人達は何だか変な人が多いから、ここはなし。こっちはスウェーデンが近いし、ここはロシアの近くだからなし。ヘルシンキの近くは物価が高いからなし、と。なんてことだ。僕たちは今、ほとんど完璧なところに住んでいるじゃないか」

 僕たちは笑いあいながら、今の家の近くでもう少しだけ田舎よりの家を探していった。
こうしていると、時間はすぐに過ぎ去っていった。今は円安が進み、僕たち日本人にとっては少し不利な状況にある。けれどそれを差し引いても、ここの家は本当に安かった。移住する気はないが。
ここは僕にとっては、あまりに寒すぎる。

 友人Vが帰ってきた。彼は僕の作った宇宙的食べ物を好んで食べてくれた。
僕は心底ホッとしたが、昨日彼が作ったスムージーの味を思い出して、憂鬱な気分になった。彼の舌は信用できない。いや、彼は良い奴だ。

 僕が景気付けに赤ワインを飲みだすと、Vは「クレイジーなチョイスだ!」と言って自分も赤ワインをグラスに注いでいた。
最近、彼の言動が段々とおかしくなっている気がする。気を許し始めてくれているのだろうか。

 「あんまり飲み過ぎるなよ」と彼女の夫が僕をたしなめた。

 「風邪を引いている時に酒を飲んで、よくなった試しがない。一度だけ、赤ワインを飲み過ぎたら風邪が治ったことがあったけど、その一度きりだ」

 「今回がその一回だと信じるよ」と僕は言った。
 「だって、フィンランドでの最後の数日間を楽しみたいじゃないか」

 「君が『いえーい!』って言いそうな案を思いついたよ。」とVが突然言った。

 「裏庭のキャビンで火をおこそう!」僕は彼の変貌ぶりに、しばらく返事ができなかった。きっと失恋でもしたに違いない。

 それから彼らは、木を取り出してせかせかと準備を始めた。僕は具合が悪かったし、どうすれば彼らの役に立つかもわからなかったので、ただ座ってワインをちびちび飲んでいた。そうしていると、キリキリと胃が痛み出した。僕は危険な信号を察知し、ものを口にすることをやめることにした。

 ハンモックのある、例の裏庭のキャビンの中は暖かくなっていた。
ベッドが一つとハンモックが二つある小さな空間で、どこかからタイムスリップしてきたような暖炉がぱちぱちと音を立てていた。

ジブリのサウンドトラックが流れる中で彼らと話していると、自分が一体どこの誰で、今ここで何をしているのかわからなくなった。
音楽が鳴り止むと皆口を閉ざし、それぞれの思いに耽っていた。あたりは、木が燃えるぱちぱちという音と、ハンモックの揺れるギギギという音だけになった。

 彼女の夫が犬の散歩に出かけると、Vが再び口を開いた。

 「日本に帰ったらどうするの? たくさんの仕事が待ってる? それとも違う仕事にチャレンジするの?」

 「どちらも。日本では、新しい仕事を見つけるのは難しいんだ。でも、今の仕事を長く続けるつもりは、あまりない」

 彼はふたりきりの時のほうがよく喋る。
 暖炉は段々と火を鎮めていった。キャビンは再び冷たさを取り戻し始めていた。僕は体が冷えてしまう前に、眠ることにした。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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