【引きこもりの北欧紀行】第五章その13 カマンベールの本当の役割

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Second Finland Day 8
 夜中に何度も起きて鼻をかまねばならなかったせいで、あまり熟睡できなかった。それでも、起きなければならない時間がないというのは、とてもいい。
今日も八時半頃まで眠り、九時過ぎにのろのろと起きだして朝食を摂った。

今日はいくらか調子がいいようだ。すでにVは仕事に行っていたし、彼女の夫は、彼女と僕の弟を迎えにフェリー乗り場へ出発していた。僕は、フルーツやヨーグルトやミューズリーを勝手に好きなだけ取り、温かい紅茶を作った。

 「何でも好きなものを、好きな時に、好きなだけ食べること。むしろ、可能な限り食べること」それがこの家のルールだった。なんて素敵なルールだろう。

 十一時過ぎ、皆が帰ってきた。僕はすでに彼女を恋しく思っていたから、僕たちは会うやいなやハグをした。
誰しもが想像していたことだったが、弟はやはりたくさんのお土産を持っていた。
ひとしきり土産物を見せ合うと、腹を空かせていた彼らは昼食を摂りはじめた。
僕は先ほど朝食を済ませたばかりだったから、少し後にすることにした。

弟の写真を見ながら、ストックホルムを訪れた時のことを思い出していた。
美しい街だ。
街並みだけで言えば、僕はフィンランドよりもスウェーデンのほうが好みかもしれない。

けれど、僕はフィンランドにこんなにも親しい友人がいる。それだけでフィンランドが大好きなのだ。
彼女と一緒に、前に僕がここを訪れた時の写真を見た。冬のフィンランド。それは今のこことは完全に違う世界に見えたし、その時の僕も今とは随分違う人物だった。

 昼食を摂った後、僕たちは荷物を詰め始めることにした。僕たちは既に、あまりにも多くの荷物を持っていたため、誰もが重量オーバーを気にしていた。
注意深く荷物を選り分けながら、パズルを組み立てるようにパッキングをしていく。機内に持ち込むバックパックはかなりの重量になってしまいそうだったが、何とかキャリーを規定の重さ以内に収められそうだった。

 僕はこの数日の運動不足のために体の節々が痛み始めていた。
散歩をしたいと申し出ると、彼女は僕が外に出たいと言ったことに驚いた風だったが、ルルの散歩のついでに僕たちを連れ出してくれた。
今日は、秋のフィンランドにしては珍しく快晴。それに気温も結構暖かかった。

僕はうきうきして、恐らく見納めになるであろう風景を目に焼き付けていった。
今年の秋は、りんごが豊作。
そう彼女が言ったことを体現するかのように、ある家の前にその家で採れたりんごが山のように置いてあり、誰でも自由に取ってくださいと書いてあった。
僕たちは木から採れたばかりのりんごをひとつずつ取り、服でごしごしと拭いて齧りながら歩いた。日本じゃこんなこと絶対にしない。甘くてジューシーなりんごだった。

 彼女が夕食の支度をしている間、僕と弟は映画を見て待っていた。
その映画は、彼女の夫が僕に勧めてくれたもので、ある青年の伝説的な人生を物語るものだった。映画の途中で夕食の支度ができ、僕たちは揃って食事をした。久しぶりに皆が集まった食卓だった。

 彼女が作ってくれたトマトのクリームスープは抜群に美味しかった。買ったばかりのフレッシュなパンと、それはとてもよく合った。僕はさほど腹が減っていなかったが、思わずおかわりをした。ここのパンも、僕が日本に帰ったら恋しく思うもののひとつになるだろう。そしてテーブルには、彼女がフェリーから持ち帰ったチーズが並んでいた。

 早めの夕食を終えてしまうと、僕たちはその映画を見終えてしまった。最後はかなり感動的だった。悲しい結末ではあったが、人間は皆いずれ死ぬという事実を知っているならば、それほど悲しい話でもなかった。何よりとても美しい映画だった。僕は思わず涙をこぼしていた。

 その後、僕と彼女はサウナへ向かった。メガネを外し、裸になり、汗をかきながら話すということは、僕たちにとってなにかしら特別な意味を持つ。日本には温泉があるじゃない、と彼女は言う。そういうことかもしれない。

 男性陣が、長い長いサウナから出てくるのを待ち(あいだに一度外に出て、ビールを飲んだりするものだから長くなるのだ)、僕たちは静かなパーティーを始めた。具合が今ひとつだった僕は、食べ物を口にするのは控えた。しかし、ワインを飲むことだけはどうしても止められなかった。何と言っても僕は、もうすぐ日本に帰るのだ。ここでのラストミニッツを心ゆくまで愉しむことだけが、今の僕にとっては重要なことなのだ。

 彼女の夫が大好きな、かなり匂いのきついカマンベールチーズがあった。日本でカマンベールチーズと呼ばれるものは、ここでは至極普通のチーズに分類されるらしかった。彼女の夫と友人Vが夜遅くにこのチーズとワインでしばしば晩酌をする時、僕はカーテン一枚隔てた部屋で眠りにつくのに苦労せねばならなかった。

 「ちょっとだけ齧ってみな」と彼女の夫が僕に言った。

 僕はちょっとだけ鼻を近づけて嗅いでみたが、吐き気をもよおすほど臭かった。「臭(くさ)い」と「臭(にお)い」が同じ漢字なのも、頷ける気がした。それでも最後には、もうどうにでもなれという気持ちになって、少しだけ口に入れてみた。

 「おうっふ、これは本当にダメだ。臭すぎる」

 「今赤ワインを飲むんだ! 今!」彼女の夫が叫んだ。

 僕は言われるがままに、赤ワインを口に含んだ。

 「甘い」
 これには驚いた。

 「だろ? だから僕はカマンベールチーズを食べるんだ。ワインがずっと美味しくなる」

 他にここでどんな話をしたのだったろうか。

ここでの一瞬一瞬を全て記憶しておきたいのに、僕はどんどん忘れてゆく。

きっと日本での慌ただしい生活に戻れば、もっと色々なことを思い出さなくなってゆくだろう。きっとそうすることで、僕の頭は容量オーバーにならずにいられるのだと思う。そして、そう思うことで僕は平和な気持ちで暮らしていける。

 この軽いテイストの赤ワインは果たして僕の風邪を追いやるのに役立ってくれているのだろうか?ふらふらした頭を抱えながら、僕はベッドに向かった。

採りたてのりんご
ole hyvä
フィンランド語で「どうぞ」の意味
りんご、誰でも食べ放題。
こんなのがフツーに玄関に置いてあります

オードブル
豪華なオードブル。
これを目の前にして、赤ワインを飲むなと言う方がおかしい

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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