【引きこもりの北欧紀行】第五章その14 貴族の体験

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Second Finland the last day
 きっと僕は疲れ始めているのだろう。どれだけ眠っても、安静にしていても、僕はいつも寒気を感じている。

しかし、今日は最後の日なのだ。
いいかい、ここでの最後の日だ。

僕は意気揚々と、はちみつ入りの紅茶と薬を飲んだ。ここに来て、実に様々な種類の薬を飲んでいる気がする。
いつものように、りんごとヨーグルトとミューズリーで朝食を済ませる。彼女がスウェーデンから買ってきた、オーガニックのベリーミューズリーは甘すぎなくて本当に美味しかった。
ここでこういったミューズリーやパンに慣れてしまうと、もう日本に帰ったら米を食べるしかなくなる。僕はパン派の人間だったが、もはや日本でパンを食べられる気がしない。それともまた、慣れてしまうのだろうか。

 今日は急ぎの仕事が入ったので、午前の時間はそれに費やされることになった。
 「おびただしい数の連絡ね。それ、クライアントとか同僚とか? 私があなただったら、パソコンをグリーンハウスに埋めてしまうと思うわ。あそこは暖かいもの」と彼女は顔をしかめていた。

 昼を過ぎた頃、彼女の夫が仕事から帰宅した。すっかり準備を終えていた僕たちは、すぐに車に乗り込んで出かけることができた。

 今日は彼女のおばさんの家に行くことになっている。彼女の母親が今年で七十歳ということだったが、彼女の母親は十二人の兄弟で一番年上、彼女の叔母はその末っ子ということなのでむしろ彼女に年が近いくらいではなかろうか。
実は、前回の訪問でも叔母さんの家を訪ねていた。
クリスマスには親戚を訪問するしきたりがあるらしく、それに同行させてもらったのだ。

豪勢なクリスマスディナーと、別宅(!)の暖炉で歓談した思い出は、今でもふんわりと僕の中で浮き立っている。あと、真っ黒で死ぬほどまずい、フィンランド特有の「サラミアッキ」というお酒も飲まされた。ほとんどそれしか覚えていないくらい、インパクトのある飲み物だった。

 彼女の家から車で四十分ほど。静かな住宅地の中を走っていた。
この辺りは、一つ一つの家の土地が広い。もちろん家もそれに応じて大きくなる。
そう、ここは所謂「裕福な人達が住むエリア」だった。車窓からは、再び夏が来たかのような真っ青な空に、キラキラときらめく海が見えた。ずらりと並ぶボートは、この土地の裕福さを物語っていた。

 ほとんど三年ぶりの彼女の叔母さんの家は、夏の終わりに見ると前にも増して別世界のようだった。
その叔母さんの夫は、大企業で取締役を務めているということで、いつも世界を飛び回っているらしかった。
それに加えて、その夫の一族はこの国でトップ10に入るくらいの貴族的存在らしい。それならこの家の大きさも頷けるというものだ。それにしても、冬に来た時は暗くてよく見えなかったその家の全貌が、今僕の目の前に広がっていた。

 「いらっしゃい! よく来たわね。また会えて嬉しいわ。本当に久しぶりじゃない」叔母さんが僕のところへ来て、ハグをしてくれた。よく日に焼けた肌とコバルトブルーの瞳をした彼女は、前よりも若返っているようだった。ところでコバルトブルーってどんな色なのだろう?

 「来て。ウェルカムドリンクを用意しているの。今年はリンゴンベリーがたくさん採れたのよ」
そう言って叔母さんは王宮の入り口みたいな階段を登り、玄関前で飲み物をサーブしてくれた。透き通ったルビー色のジュースに、庭で採れたらしいフレッシュなリンゴンベリーとブルーベリーがたくさん入っていた。リンゴンベリーなんて、IKEAのジャムでしか知らない。

 「さぁ、中に入って。ランチの準備もできてるのよ」僕たちがドリンクを飲み終わらないうちに、叔母さんは僕たちを中へ迎え入れてくれた。叔母さんは彼女よりもよく喋る人だった。

 家の中は、僕の記憶に刻み込まれているままの姿だった。隅々まで丁寧に手入れされており、家具のひとつひとつが高級そうだった。

いや、間違いなく高級なのだろう。こういうものは、物の価値の分からない僕みたいな人間ではなく、彼らのような人に属するべきなのだ。そして、やっぱり信じられないくらい広かった。「映画でしか見ない光景」というフレーズは、こういう時のために作られたのだろう。

 僕と弟は、お決まりみたいに日本からの土産物を渡した。扇子とお手拭きとランチョンマット。きっと、もう物には飽き飽きしているくらいかもしれないが、叔母さんは「クリスマスが来たみたいね」と喜んでくれた。

 くすみ一つない大きなスクリーンのような窓から、すぐ側の海が見渡せた。今、かもめが鳴いたような気がした。気のせいかもしれないけれど。こんな光景を独り占めなんて、どんな気分なのだろう。とても僕の手には負えない。その窓の側のテーブルで、僕たちは少し遅めの昼食を始めた。

まず叔母さんがサーブしてくれたのは、きゅうりとガーリックとヨーグルトなんかで作った冷たいスープ。
にんにく独特の風味をヨーグルトがうまく調和して、とても美味しいスープだった。
フィンランドの北からやってきたという、やや甘みの感じられるもちもちとした薄いパンとともに、僕は存分にスープを味わった。僕はこのタイミングで、テーブルを離れて鼻をかまねばならなかった。おかげで僕は、これが夢なんかではなく現実に起こっていることなのだと認識できた。鼻をかむと、スープの風味がより強く感じられた。

 失礼。

 その後は、銘々に皿に好きなものを取るというビュッフェスタイルで食事が進んだ。

赤いビーツと人参を使ったグラタン、ネギとキャベツとパプリカのサラダ、ラップランド(北欧の北の地方)でしか採れないアーモンドの形をしたじゃがいも、トナカイの肉を煮込んだクリームソースがキッチンのテーブルにずらり並んでいた。
ひとまず全てを皿に取り、口をきいたかも覚えていないくらい無心で食べた。

赤いビーツのグラタンは、見た感じにはかなり奇妙な色をしていた。紫に近い赤のビーツが主張し、それはほとんどグラタンには見えなかった。それに赤いビーツといえば、リトアニアで飲んだ例のピンクスープの主原料だ。恐る恐る口にすると、それは確かにグラタンだった。味の面で言えば、キッシュに近いものだったのかもしれない。シャクシャクでもホクホクでもないビーツが、温かいソースと一体になっていた。

 「ねぇ、知ってた?それブルーチーズが入ってるのよ」と彼女が不敵な笑みを浮かべながら言った。

 僕はブルーチーズが食わず嫌いだった。カビの生えたチーズなんてたまったもんじゃない。それに、僕は甘いものも辛いものも、とにかく強い味が苦手なのだ。だから、それを聞いた時はかなり驚いた。

 「こっちに来てご覧なさい。見せてあげるから」と叔母さんは僕をキッチンへ連れて行ってくれた。なるほどそれは、確かに青いカビの生えたブルーチーズを、細かい粉状にしたものだった。

 「火を通すとね、ブルーチーズはまろやかで美味しくなるのよ」
 世界はまだまだ、僕の知らないことに充ちている。

 続いてサラダ。サラダにネギを使うというのは一見斬新なようにも思えたが、生の玉ねぎをサラダに使うようなものなのだろう。他の料理に合わせてさっぱりと味付けされたそれは、いい箸休めになった。箸休めどころか、たぶん僕は一番それを好んで食べた。生のキャベツは好きじゃないけれど、そのサラダは大丈夫だった。僕は叔母さんの養子になれば、好き嫌いがなくなるのかもしれない。そのサラダのおかげで、翌日の昼まで口がネギ臭かったけれど。

 そして、トナカイの肉。僕は三年前に留学した時も、サンタクロース村のある街でトナカイの肉を食べた。その頃僕はまだ、肉を多少は食べる人間だった。随分と美味しかった記憶がある。それでも、叔母さんの料理には敵わなかった。トナカイの肉を柔らかくなるまで煮込んだシチューのようなクリームソースは、メークインをさらに滑らかにしたような味わいのポテトとすごくよく合った。まともな肉は本当に何ヶ月ぶりか(あるいは何年ぶりか)に食べたが、特に違和感もなくただ美味かった。

 弟はこのトナカイ肉を随分と気に入ったらしく、黙々と食べ続けていた。彼はもともとあまりお喋りではないが、ここでは思った以上に自分の英語が通じないので、ほぼ口をきかずに暮らしている。その分かは知らないが、日本にいるときよりもよく食べている。

 ちゃっかりおかわりした後は、デザートが待っていた。これがまた、北欧独特の変わったものだった。リンゴンベリーをたっぷり使った、ピンク色のポリッジ(お粥のようなもの)で、中にはふすまだかライ麦だかが入っているらしかった。一見ゼリーのようだったが、歯ざわりと言い、お腹に溜まる感じといい、朝食に出てきそうな感じだった。とにかく口では説明しづらいのだ。まずくは決してないのだが、おかわりしたいものではなかった。

 「これは私の子供時代の思い出の味なの」と叔母さんは言った。

 「まだあまり食べ物がなくて、森から食べ物を採ってきていた頃の話。わたしはこれに牛乳を混ぜて食べるのよ。冷たいままでも、温かくしても、お好みで」

 なるほど。その話を聞くと、僕の口の中では物語が始まった。バンダナを付けた少女が、森の中でベリーを摘んでいる。手を赤やら紫やらに染めて、目を凝らしてベリーを探している。ブルーベリーも、リンゴンベリーも、地面近くに生えているから見つけるのがなかなか難しい。何ということだ。それじゃまるで、数週間前の僕みたいじゃないか。

 その後、僕たちは叔母さん夫婦が出会った経緯を聞いた。それは、まるで運命的な出会いだった。彼らは電車の中で偶然出会った。夫の方は離婚していて、叔母さんは独身だった。

フィンランドでは、離婚や再婚はごく当たり前のことなのだ。だから、子供たちの関係も複雑になることが多い。
ここでもそういった複雑な状況があったが、ヨーロッパの国では概して子どもの独り立ちが早く、それぞれが我が道を進むために、あまり問題は大きくならないようだ。

そうして、叔母さんの夫は彼女に「結婚をしてみるというのはどう思う?」などときざな台詞を言い、十二年前に二人は結婚した。

景色
叔母さんの家から見える絶景。
ここをボートで走ったりするらしい。
ちょっと、想像できない。

スープ
きゅうりとヨーグルトの冷たいスープ

ビュッフェ
ビーツのグラタンが、思いのほか美味しかった

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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