【引きこもりの北欧紀行】第五章その16 そして帰路へ

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Finland⇒Osaka
 午前3:23。ベッドに入ってから七時間ほどが経っている。途中に二度ほどトイレに行ったが、上出来だろう。目覚ましが鳴る前に、自然に起きられた。彼女も彼女の夫も、それに友人Vまでもが起きだしてくれた。
今日は、家族総出で僕たちを送ってくれるらしい。何から何まで親切で至れり尽くせりだ。本当に良い友人たちを持った。ますます別れが言いづらくなる。

 外はまるで、先の見通せない黒いシートを、頭からすっぽり被されたみたいに真っ暗だった。
それでいて、どんな光も吸い込まれてしまいそうな奥行きのある闇だった。

手を伸ばしても何にも触れることはできないけれど、その手の先が違う世界に入りこんでしまいそうな危険性をはらんでいた。
夏のフィンランドでここまでの暗黒を見られるのは珍しいかもしれない。重い荷物たちと五人の奇妙な家族を乗せ、車は闇の中を疾走していった。

誰も何も話さなかった。
皆眠かったのかもしれない。
それか、疲れていたのかもしれない。
けれど僕の場合は、何かを話してしまうと堰を切ったように別れの実感が押し寄せてきそうだったから、何も話せなかった。

 空港に着いたのは、午前五時だった。彼らは前もって示し合わせたみたいに、僕たちをゲートまで送ろうとはしなかった。時には、時間をかけずに別れの挨拶を済ませたほうが良い時もあるのだ。今日はまさにそんな日だったと思う。

 僕はまず彼女とハグをした。彼女の目には涙が浮かんでいた。暗くてしかもメガネだったからよく見えなかったけれど、目が赤くなっているのは見えた。

 「元気でね。身体に気をつけて。飛行機の中では、よく休むのよ。あまり働きすぎないで。クリスマスにまた夫と日本に行くから、それまで待っていてね」

 「うん。約束する。ちゃんと身体に気をつけるよ。クリスマスに待ってるからね」

 こんなに長いハグは久しぶりだった。彼女の思いが痛いくらいに伝わってくる。彼女はこういう人なのだ。
 そして、彼女の夫、友人Vとも交代でハグをする。また会いたい。本当に。

 彼らの車を見送って、僕たちは空港内に入った。僕のフライトのせいで早起きをさせられたと思っているらしい弟は、いくぶん機嫌が悪いようだった。そんな弟に颯爽と別れを告げ、僕は一人でフライトへと向かった。

朝の七時にヘルシンキを出発する飛行機で、オランダのアムステルダムへ向かう。オランダはここよりも一時間早く、現地についたのはまだ八時半だった。機内で、できるだけ水分を摂り、味気ない卵のサンドイッチを朝食に食べた。

僕の次のフライトは午後三時頃だ。ちょっとした冒険ができてしまいそうな長い待ち時間は、考えようによっては、好きなことをできる時間を獲得したも同然なのだ。何もプレッシャーを感じることのない、完全に自由な時間。しかも今回は、ユーロが余っている。空港でお土産を物色するつもりだった。

 アムステルダムの空港は、ハブ空港であることも手伝ってかなり規模が大きい。土産物店を探すだけでも一仕事になりそうだったが、運の良いことにチーズを買うのに良さそうな店を見つけた。
妹に何か化粧品でもとも思ったが、何がなにかさっぱりわからなかったし、香水の匂いに酔ってしまいそうになったし、今度グアムに行く時に買うからいいと言われたので今回は見送ることにした。

そのチーズの店でりんごと水を買い、それらを手に適当な椅子に座った。冷蔵品は直前に買うべきだ。僕の計画はうまい具合に頭のなかで進んでいた。そこに座って二時間弱ほどこの旅行記を書いていた。

 目の前には、天井の高い豪勢なカフェがあった。馬鹿みたいに大きいケーキと、イタリアのコーヒーブランドの名前が入ったカップが見えた。キッチンの裏側が見えるこの椅子からは、店員たちが慌ただしく働く様子が伺えた。

“Have a break.”

 唐突に目の前にチョコレートが二つ差し出された。顔を上げると、目の前のカフェで働くおじさんが、僕のところまで来ていた。カフェに入りもせずに、店の前のベンチでカタカタとパソコンを叩く僕に、彼はささやかなブレイクを与えてくれた。

これだ。こういうのを、忘れちゃいけないんだ。

 昼食を摂った後、僕の財布には九セントだけが残った。
この類の完璧性を、僕はかなり好ましく思う。
そこからの十一時間のフライトは、相変わらずロクに眠ることもできず、全身に染みわたる痛みに悩まされることになった。それでも、何の罪悪感もなく映画を立て続けに三本も見られる時間なんて、飛行機の中くらいしかない。

 いよいよ着陸が近づいてきた。何度旅行に行っても、この瞬間が好きだ。
住み慣れた日本、聞き慣れた日本語のアナウンスを聞きながら、関西国際空港に着陸しようと飛行機が下降を始めている時の興奮に代えられる感情はない。

帰る場所があるというのはこういうことなのだ。
定期的にこんな風に離れてみて、いつも初めて気づいたみたいな気分になる。人間ってものは、勝手だ。

そんなふうに思いながら、今夜は温かい鍋がいい、なんてことを思っている。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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