伊勢旅行記 第2章① 〜新しい、いにしえの宿〜

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外宮と内宮は、車でほんの15分ほどの距離にある。
いや、同じ名前のついた神社が、車で移動しなければならないほど離れていることが珍しいことだとすれば、「ほんの」という表現は正しくないことになる。
わたしたちの取った宿は、内宮の近くだった。歩いて行けてしまうくらいの。17時頃にチェックインをし、その後夕食までに、閉門直前の内宮を参る「夕間詰め」をしようと思っていたのだけれど、部屋の扉を開けた瞬間、そんなことがなにもかも全部、どうでも良くなってしまった。

部屋に辿り着くまでもそうだったけれど、部屋があまりにも素晴らしかった。
ひとつひとつ挙げていては、きりがない。あらゆることが、期待しすぎていたわたしたちの期待を大きく超えていた。和と洋が絶妙に入り混じる雰囲気も、特に気に入った。和洋折衷。そういうのとはまたちょっと違う、ちゃんとひとつに溶けている感じ。

わたしたち姉妹は、「最高」「ただの最高やん」「さいっっっっっこう〜〜〜〜〜〜〜」「もうほんま最高すぎ」と、ほとんど気がふれたみたいに叫び続け、己の語彙の貧弱さを嘆いた。いや、人というものは、本当に心の底から感動すると、うまく言葉を見つけることができなくなるのだ、きっと。

内宮に行く話は、暗黙の了解のような形でなしになった。誰も彼もが(少なくともわたしたち姉妹は)、この宿の魅力に一秒でも長く浸っていたかった。
夕食は二部制で、わたしたちの夕食は20時からの予定だった。これくらいのお宿なら部屋食でも良さそうなものだけれど、ここはいい感じに付かず離れずのサービスだった。お金をかけるところと、そうでないところがはっきりしている。その基準みたいなものが、わたしたちの家族のそれにぴたりとはまっていた。

部屋に着くと、妹とわたしは父に一万円ずつ渡した。二人とも働いているのだから、いつまでも親におんぶに抱っこというわけにはいかない。それでも全然足りないのだけれど、気持ちだけ。
父は案外すんなりとそれを財布に入れ、母は信じられないという顔つきで、自分もほとんどしぶしぶと言って差し支えないだろうけれど、財布から一万円を出していた。

母は、父に多くを求めすぎていた。そして自分の経験から、夫への期待を半ば無意識的に排除していった。そうすることで、彼女なりに折り合いをつけるしかなかった時期があった。
「もう期待はしないの」
母が口癖のように言っていたその言葉は、自分自身に言い聞かせていたのだろう。それでも、やはり彼女は夫に期待をしている。認めてほしい、守ってほしい、ありがとうと言ってほしい、そのためなら、なんだって頑張れるのに。

母の痛いくらいの想いは、あるいは父に届かないかもしれない。
それは、母自身を傷つける刃かもしれない。
けれど、「夫婦」という特別な関係の中で、何も期待をすることがなくなってしまうのも、なんだか寂しい気がする。そんなわけで、わたしは娘として、母がそういう気持ちを多かれ少なかれ持ち続けることを、ある意味ではいいことなんじゃないかと思う。無責任に、そう思う。

そのやり取りから30秒ほどの短い間に、わたしはそんなことを考えていた。気が付くと、目の前に一万円が差し出されていた。いちまんえん。
たくさんの人がこの一枚の紙切れのために溺れ、愛し、心血を注ぐ魔法の紙。
「じゃあこれは、お小遣い。宿代はもらったから」
父がしたり顔でこちらを見ていた。その時のわたしたち姉妹の歓喜と、母のうっとりするような目を、わたしはずっと大切に持ち続けていたいと思う。ただのお金ではない、確かな愛情がそこにはあった。お金で愛情は買えないけれど、お金は時に、愛情を表現するかなり有効な手段になりうるのだということを思った。

自分と未来は変えられるけれど、他人と過去は変えられない。
だから、わたしは他人が気に入らない時、その人と関わらないようにするか、自分の捉え方を変えようと試みる。わたしは父が好きだけれど、あまりそういう意味での期待をしないように努めていた。人に対するおもいやりとか、そういう点において、わたしたちは全く考え方が違うのだと。けれど今日、父の新しい姿を見た気がした。きっとそれは、わたしが父の新しい面を知ったというよりも、父自身の変化を目の当たりにしたという方が近い気がする。

わたしたちが泊まった宿は、「伊久」というところ。
おそらく、人生でいちばんいい宿。かもしれない。
いにしえの宿「伊久」
伊久のウェブサイトはこちら

人数と予約時期の関係で、なんと「和洋スイート」と名のついた部屋に泊まることに。いやはやなんとも。
「伊久」和洋スイート

続く↓
伊勢旅行記 第2章② 〜消え行く緊張と現実感〜

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