伊勢旅行記 第2章② 〜消え行く緊張と現実感〜

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時計が18時を指す少し前。
わたしたちは、「花桜」と呼ばれるお迎え処に足を運んだ。夕食が20時からの宿泊者に、小さな天むすが振る舞われるのだ。食いしんぼうのわたしの家族たち(主に妹と母親)は、こういうイベントを決して逃さない。

一番乗りにそこに着いた時、何だかばつが悪くて、何でもないふうを装ってコーヒーを飲んだ。わたしは普段あまりものを食べないほうなので、天むすは妹にあげた。
本当は、夕間詰めをする人たちが腹ごしらえをするための気遣いなのだろうけれど、わたしたちはもう、今日はここを一歩も出ないことに決めていた。

そこの大きな窓から見える景色は、「絵になる」という言葉をまさに絵にしたような、そんな眺めだった。緑と、滝と、それ以外の何も寄せ付けないぴりりとした空気。それでいて、決して冷たく高みから見下ろすふうではなく、ちゃんと側にいて満たしてくれる。
美味しいコーヒーを飲んで、目の前の景色に身を預けていると、体がふにゃりと力を失い、いつまでもそこから立ち上がれなくなってしまうような気さえする。

部屋に戻り、部屋の露天風呂に湯を張る。ベランダと呼ぶのは無粋と思えてしまうような趣のある木のデッキの上に、ひとり分の湯船がある。
実際に入ってみると、その湯船は見た目よりもずっと大きく、わたしと妹をすっぽり包み込んでしまった。デッキがあまりに大きくて、そこから見える自然があまりにも雄大で、湯船が小さく見えてしまっただけなのだ。

汗だらけの体をざぶん、とそのまま湯船に浸けてしまう時のかすかな罪悪感と、あまりの心地良さに声にならない声を上げ、わたしたちはくすくすと笑う。
ああ、なんて世界なのだろう。さっきまでスーツを着て働いていたなんて、嘘みたいだ。誰も手の届かない、ずうっと遠くまで来たような気持ちになる。
汗を流してしまうと、わたしの中にずっと溜まっていたいろんな澱(おり)みたいなものも、みんな流れてしまった気がした。いつもぴりぴりと張り詰めている何かが、ぷつりと切れるわけではなく、大きくたわんでゆく。

適当に体を拭き、適当に浴衣を纏い、もう何も考えずに、冷蔵庫にあるハイボールの缶を開ける。
ぷしゅり。お酒は弱いくせに、甘ったるいカクテルよりも、こういうドライなお酒のほうが好きなのだ。胃の中を冷たいアルコールがつたう。これからお風呂に入るのだから、3分の1ほどしか飲まなかった。

お迎え処「花桜」
気の利いたカフェにも見劣りしない、高級だけれどどこか落ち着く場所。
伊久のお迎え処「花桜」

小さな天むすと、お味噌汁。
心遣いが、どこまでも行き届いている。
伊久の天むす

続く↓
伊勢旅行記 第2章③ 〜お風呂三昧〜

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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